宋史演義第九十一回 蒙古と約し残金を挟撃す/蔡州を克し太廟に俘を献ず (約蒙古夾擊殘金  克蔡州獻俘太廟)

拖雷軍と金軍の攻防

  • 拖雷は蜀での掠奪を切り上げ召還され、金の背後を突く形で漢江を渡り汴京へ向かう。金主守緒は完顔合達・移剌蒲阿らに鄧州へ集結させたが、蒙古軍の奇襲で輜重を奪われるなど苦戦しつつも、合達は虚偽の大捷を汴京へ報告した。
  • 数か月後、オゴデイ汗が自ら南下し汴京攻略を命令。合達・蒲阿は召還されるが、拖雷の遊撃戦に翻弄され、三峰山で蒙古軍に包囲されて大敗(楊沃衍ら戦死、武仙は逃走)。合達・陳和尚は鈞州に籠るも間もなく陥落し戦死、蒲阿も捕らえられ処刑された。
  • 蒙古軍はさらに潼関・洛陽を攻略。洛陽留守撤合輦は自尽し、強伸が三ヶ月籠城の末に敵を退けた。

汴京陥落と金主の逃避行

  • オゴデイは降伏を促し、金は曹王訛可を人質に送るが講和は破れ、汴京は速不台の猛攻を受け続けた。金は財貨を贈って一時撤退させたが、蒙古の使者が金軍に殺されたため和議は再び決裂。
  • 宋の史嵩之を通じ、蒙古は宋に対しても金を挟撃する協力を求め、宋廷はこれに応じることを決める(趙范は反対したが理宗は従わず)。
  • 金では兵糧の徴発が民を苦しめ、金主守緒は汴京を離れて北へ避難を試みるが渡河中に嵐に遭い被害を受ける。蒙古軍の追撃で溺死者も出た。白撤の援軍も蒙古軍史天澤に大敗。
  • 汴京では元帥崔立が反乱を起こし留守大臣を殺害、蒙古に降伏。速不台が入城し、金の皇太后・皇后・諸王妃らを略奪・凌辱の上、和林へ送った。崔立自身も蒙古兵に妻子・財産を奪われる皮肉な結末となった。

蔡州籠城と金の滅亡

  • 帰徳に逃れた金主守緒は、部将蒲察官奴の専横(女魯歓殺害等)を退けたのち、蔡州へ移る。
  • 宋の孟珙は襄陽方面で武仙らを撃破し降兵七万を得た後、史嵩之の命で蔡州攻めに転じる。宋と蒙古(塔察兒)は南北から蔡州を分担攻撃する協定を結んだ。
  • 金は完顔阿虎帯を宋へ送り「唇亡歯寒」を説いて糧の融通を求めたが宋は拒絶。蔡州は宋蒙両軍に包囲され、汝河の堤を決壊させて水を抜くなどの攻城戦の末、外城が陥落。
  • 金主守緒は完顔承麟に譲位した直後に自尽。承麟も即位の礼が終わらぬうちに宋軍の突入を受け乱軍の中で死んだ。完顔忽斜虎も水に身を投げて殉じ、部下五百余人も殉死した。金は太祖阿骨打の建国から哀宗守緒まで六世九主、120年で滅亡した。
  • 孟珙は金主の遺骨・宝物を宋廷に献上。捕虜の張天綱は「一国の興亡はいずれの代にもあること」と気概を示し、理宗はこれを評価し獄に留めた。

史彌遠の死と理宗親政

  • 蔡州陥落の頃、史彌遠は太師・左丞相を辞し会稽郡王となった後に死去(在相26年)。理宗は初めて親政を行い、端平と改元。「三凶」を逐い、「四木」(薛極・胡榘・聶子述・趙汝述)を遠ざけ、洪咨夔・王遂を監察御史に登用した。
  • 洪咨夔は史嵩之の献俘を「知兵ならず驕慢」と批判し、また戦勝に浮かれることを戒めた。太后廃后とされていた濟王竑の名誉も回復された。
  • 趙范・趙葵は黄河・関中を確保し三京(開封・洛陽・長安)を回復する策を提起し、これが新たな争乱の火種となる。

評語

  • 『元史演義』はモンゴル軍を詳しく描くが本書は宋を主とするため蒙古・金の記述は簡略である。訳名の異同は注記で対照した。