宋史演義逆首を誅し淮南患を紓ぶ/外使を戕い蜀右兵を被る(第九 十回 誅逆首淮南紓患  戕外使蜀右被兵)

姚翀の逃亡と楚州の内訌

  • 変事が起きると姚翀は逃げ出し、李全配下の鄭衍德の助けで囲みを抜け、鬚髯を剃って城を抜け出し明州へ逃れたがまもなく病死した。
  • 朝廷は淮の混乱続きに手を焼き、楚州に節度使を置かず淮安軍と改め、通判張国明に守らせた。
  • 盱眙の守将彭は功名を立てようと張惠・范成進を淮安に潜入させ、李全配下の国安用・閻通道に、忠義軍への糧秣停止の原因である劉慶福・李福を除くよう説いた。
  • 折しも宋に降った張林も加わり、四人は李福を襲って殺害し、李全の次男・通も殺し、楊氏(李全の妻)と誤って別人(李全の妾劉氏)の首を討ち取って楊紹雲に献じた。実は楊氏は既に海州へ逃れていた。
  • 論功を得られなかった張惠・范成進は金への内通を企て、盱眙で彭を酒に酔わせて捕らえ、淮を渡って金に降った。

李全の離反と淮南占拠

  • 兄の妾が殺されたことを知った李全はモンゴルに従い淮南経略を命じられ、復讐を誓う。指を断って南朝には戻らぬ意を示し、蒙古の衣冠を着けて自ら「山東淮南領行省事」と称した。
  • 楊紹雲は揚州へ避難、王義深は金へ降った。国安用は張林・邢徳を誘殺して首を全に差し出し許され、李全と共に淮安へ入り、海州・漣水も占拠した。楊氏も淮安で全と再会した。
  • 史彌遠は招撫方針を貫き、李全に節鉞を与えようとした。李全は表向き朝命に従いつつ密かに水戦の訓練を重ね、南北を問わず水兵を募って戦艦を増やし、楊氏と共に海上で大規模な閲兵を行った。
  • 金とも通じて盱眙を金に譲る約束をし金から淮南王に封じられるが辞退の姿勢を見せる。宋・蒙古・金の三方に対しそれぞれ異なる顔を使い分け、実質は独立勢力として振る舞った。
  • 節鉞を得られぬことに業を煮やし、部将穆椿らに皇城で放火させ、御前軍器庫を焼き払わせた。

鹽城占拠と朝廷の詔

  • 朝廷はこれが李全の仕業と知りつつ咎めなかった。李全は麦を運ぶ船が知揚州翟朝宗に奪われたことに激怒し、大軍で鹽城を襲い占拠したが、表向きは「盗賊討伐のため」と弁明し、朝廷はなお彰化・保康節度使等に任じて兵を退かせようとした。李全は「子供扱いか」と反発し受けなかった。
  • 李全は船を急造し、防備を名目に更なる銭糧と誓書鉄券を求め続けた。朝廷の際限ない譲歩に将士の不満が高まる。
  • 趙范・趙葵・趙善湘ら「三趙」は討伐を主張。史彌遠も方針を転じ、理宗の裁可を得て李全の官爵剥奪と討伐の詔を発した(内容は李全の罪状と、討伐に功ある者への恩賞を列挙するもの)。

揚州攻防と李全の最期

  • 詔が下ると李全は揚州湾頭を攻め、趙璥夫は籠城。趙范・趙葵が援軍として揚州入りし、李全は先に通州・泰州を落としてから揚州を攻める作戦を取ったが、二趙に先んじられ悔やんだ。
  • 揚州で趙葵と李全は濠を挟んで問答し、互いに非難し合う。李全は矢を射るが失敗し、以後何度も攻めては退けられる。
  • 紹定四年(1231年)春、趙范・趙葵は連携して李全軍を打ち破り続け、上元節には敵の油断を誘う。李虎らの伏兵計により、李全は追い詰められて新塘の泥沼に陥り、そこを官軍に討ち取られ、遺体は解体された。
  • 残党は李全の妻楊氏を頭に立てようとしたが、趙范・趙葵にさらに撃破され四散。楊氏は自ら軍を離れて北へ去り、その後淮安は平定、海州・漣水も回復した。楊氏は山東で数年後に没した。李全の乱、十年に及んだ淮の禍はここに終息した。

真徳秀・魏了翁の排斥

  • 理宗は当初儒臣を用いて治世を志したが、史彌遠が実権を握り続け、濟王竑の冤罪を訴えた真德秀・魏了翁を疎んじ、梁成大・李知孝・莫沢の「三凶」を重用して二人を弾劾・左遷させた。
  • 理宗は程・朱・張・陸ら名賢の子孫を登用し功臣を祀る閣を建てたが、現存の賢者を退けるという矛盾した対応であった。

モンゴルの西方遠征

  • モンゴル太祖チンギス・ハンは木華黎と南北を分担して経略。西遼に逃れた乃蛮の屈曲律(クチュルク)は西遼の王位を簒奪したが、チンギスの命を受けた哲別に討たれ、西遼は蒙古の版図となった。
  • 花剌子模(ホラズム)が蒙古の商人・使者を殺害したため、チンギス自ら親征。ホラズム王モハンマドは敗死し、子のジャラールッディーンも敗れてインド河を渡って逃げた。
  • チンギスはさらに追撃しようとしたが、耶律楚材の進言(瑞獣「角端」の故事)で撤兵。哲別・速不台は欽察(キプチャク)・ロシア諸侯を破って凱旋した。

西夏の滅亡とチンギス・ハンの死

  • チンギスは西夏の非協力に怒り親征。西夏主李徳旺は憂悸のうちに死去、子の睍が幼くして立つが抗しきれず降伏、財宝・子女を奪われ、西夏は元昊称帝以来十主・201年で滅亡した。
  • チンギスは六盤山で病篤くなり、金を滅ぼすには南宋に道を借りて唐・鄧から大梁を衝くのが得策と遺言し、六十六歳で没した(廟号太祖)。少子拖雷が監国となり、後にクリルタイで三男オゴデイが大汗に推された。

蜀への侵攻と使者殺害

  • 紹定三年冬、拖雷らが陝西に入り山砦を攻略し鳳翔・潼関に迫る。オゴデイは使者速不罕を宋に送り道を借りようとしたが、宋将張宣に殺害された。
  • 激怒したオゴデイは拖雷に蜀への侵攻を命じ、大散関・鳳州・洋州を落とし興元を包囲、軍民数十万が死んだ。蜀の城砦440ヶ所が陥落したが、蒙古軍はそのまま蜀を去った(詩を挟み、事情は次回に持ち越し)。

評語

  • 李全の驕慢・凶暴はいずれも史彌遠が甘やかし縦にした結果であり、宋の叛賊である李全に節鉞まで与えようとした彌遠の判断は理解しがたい。彼を厚遇する一方で真德秀・魏了翁ら賢者を遠ざけたのは「類は友を呼ぶ」の類であり、鄭清之の決断と二趙の奮戦がなければ江淮は荒廃していただろう。
  • モンゴルによる西遼・西域・西夏の平定は『元史演義』に譲るが、宋に道を借りようとした一件は『宋史』上最も重要な事件である。使者を拒むのは已むを得ないとしても、殺害したことの是非は、その後の犠牲の大きさに照らして問われるべきである。