宋史演義第八十一回 朱晦翁、社倉法を創立す/宋孝宗、重ねて内禅の儀を定む (朱晦翁創立社倉法 宋孝宗重定內禪儀)
恪の立太子と外戚の台頭
- 太子愭の死後、孝宗は三男惇を後継に立て、次男愷は魏王に封じられ地方に赴いた。
- 呉太后の縁者張説が樞密院に抜擢されたことに朝臣が反発し、虞允文が糾弾されて撤回された。左右丞相制に改まり虞允文・梁克家が就任したが、人事を巡る対立で二人とも次第に退いた。
- 湯邦彥を金に派遣した申議(陵寝返還交渉)は威圧されて失敗、以後この種の要求は控えられた。
- 謝氏が新たに皇后に立てられた。
朱熹の生い立ちと学問
- 朱熹(字元晦)は幼くして聡明で、程門の学統(周敦頤・張載・二程・楊時・羅従彦・李侗)を継いで大成した南宋の大儒として紹介される。
- 進士及第後、和議に反対する上奏をしたため湯思退らに抑えられ、いったん退いたが、後年史浩の推薦で南康軍知事となり、荒政と学問振興に尽力した。
朱熹の直言と社倉法
- 淳熙六年の旱魃に際し朱熹は上疏し、君主の心術の正しさと紀綱の確立を説き、近習が権力を私物化している弊害を厳しく批判した。孝宗は激怒したが趙雄の取りなしで事なきを得た。
- 浙東に転じた朱熹は飢饉対策として米商を集めて賦税を免除し民を救い、清廉な統治で成果を挙げた。
- かつて郷里で行った常平米による貸付・利息還元の仕組みを「社倉法」として制度化し、全国に頒布させた。
唐仲友弾劾と朱熹への反撃
- 台州知事唐仲友の不正を朱熹が弾劾したが、宰相王淮が同郷の仲友を庇い、逆に朱熹を江西提刑に転出させて事実上退けた。
- 陳賈・鄭丙らが「道学」を偽りの名声とみなして排撃する動きを見せ、朱熹は職を辞して観に籍を置いた。
- 張栻・呂祖謙・陳亮ら同時代の学者・志士も紹介される。
高宗の崩御
- 高宗は徳寿宮で悠々自適の晩年を送ったが、淳熙十四年に崩御。孝宗は三年の喪に服そうとするが議論の末に簡略な服喪となった。廟号は「高宗」と定められた。
- 寵妃劉貴妃の死後まもなく高宗も没したことが語られる。高宗の生涯は、汪伯彦・黄潜善に惑わされ秦檜に制せられ、李綱・趙鼎・張浚を退け岳飛父子を死なせた末に金に臣従した点で厳しく評される。
朱熹の再登用と限界
- 王淮罷免後、周必大の推薦で朱熹は江西提刑に再任され、正心誠意の理を説いたが、孝宗の反応は芳しくなく、林栗の弾劾を受けるなど紆余曲折の末、結局は祠官にとどめられた。
光宗への譲位
- 淳熙十六年、孝宗は周必大・留正に譲位の意向を伝え、太子惇に内禅。太子は即位して光宗となり、孝宗は寿皇聖帝として重華宮に退いた。
- 皇太子妃李氏(鳳娘)が皇后に立てられる。鳳娘は幼時に異相を占われ、皇甫坦の勧めで恭王妃となった経緯が語られ、高宗・孝宗ともにその悍しい気性を案じていたことが示される。
評語
- 孝宗は南宋の賢君とされるが統治への熱意と用人の一貫性を欠き、高宗との差は僅かだったと指摘。
- 朱熹の賢才を知りながら重用せず社倉法程度の献策しか採らず、しばしば祠官に留め置いたことを惜しみ、高宗・孝宗ともに内禅による退避を「恬退」として美化できるものではないと結ぶ。