宋史演義第六十六回 韓世忠、力もて首逆を平ぐ/金の兀朮、大挙して南侵す (韓世忠力平首逆 金兀朮大舉南侵)
臨平の戦いと苗劉討伐
張浚・呂頤浩は勤王軍を進め臨平で苗翊・馬柔吉の陣を撃破。韓世忠が先陣で突撃し、敵は総崩れとなった。
苗傅・劉正彦の逃亡と誅殺
苗傅・劉正彦は鉄券を受けたまま夜に杭州を脱出。王世修は韓世忠に捕らえられた。張浚・呂頤浩は入城して高宗に謝罪し、高宗は張浚に自らの帯を授けて労った。韓世忠は首謀の中軍統制・呉湛を自ら捕らえ、王世修とともに処刑。逆党の残党も処分された。
論功行賞と人事
朱勝非は功を譲って退職を願い出、後任に呂頤浩・張浚を推挙。呂頤浩が右僕射、韓世忠・張浚は御前左右軍都統制などに任じられ、内侍の政治介入が禁じられた。
建康遷都と皇太子薨去
高宗は杭州から建康へ移り、江寧を建康府と改称して駐蹕。皇子旉を皇太子に立てるが、まもなく病を得て事故的な驚愕から痙攣を起こし夭逝。高宗は悲しみのあまり宮人らを処罰した。
范瓊の誅殺
都巡検の范瓊は苗傅の助命を強要するなど傲慢であったため、高宗は張浚に密命し、会議と称して范瓊を捕らえ処刑させた。部下は動揺せず引き渡された。
張浚の陝西経略と対金外交
張浚は関・陝の防衛を自ら申し出て川陝京湖宣撫処置使となる。高宗は洪皓・崔縦を金に派遣して和議を求めたが、洪皓は抑留され、崔縦も帰国できずに客死。
呂頤浩の遷都反対と杜充の失態
呂頤浩らは武昌行幸に反対し杭州(臨安府)留まりを主張。東京留守の杜充は岳飛の諫めを聞かず勝手に南下し、高宗はかえって彼を重用した。
高宗の哀訴書と胡寅の七策
高宗は金の粘沒喝に卑屈な和議の書を送るが相手にされず、起居郎胡寅は高宗の弱腰を批判し、和議を捨てて戦略を立て直すべしとする七策を上奏したが、呂頤浩の反感を買い外に左遷された。
劉豫の降金と応天陥落
高宗は臨安へ移る途中、金将撻懶に降った劉豫が東平府を治め、金の南下を助けた。知応天府の凌唐佐は偽って降りつつ密書で朝廷に援軍を求めたが露見し処刑された。
張邵・李邈の抗節
高宗は撻懶に劉豫の南進阻止を求めるが、使者の張邵は毅然と拝礼を拒み抑留された。真定の李邈も金への服属を拒んで殺された。
兀朮の南侵と江西の混乱
金兀朮は江東・江西へ侵攻。劉光世は江州で酒宴にふけり戦わずに逃走、洪州・撫州・袁州も相次いで陥落。隆祐太后は吉州から虔州へ逃れる道中、船頭の裏切りや護衛の潰走に遭いながらも辛くも虔州にたどり着いた。
趙立の楚州死守と杜充の建康降伏
知徐州の趙立は金軍の中を突破して楚州に籠城し、負傷しても指揮を続けた。一方、江淮を任された杜充は援軍を出さず、太平失陥後に建康を放棄して逃亡し、ついに兀朮に降伏。通判の楊邦乂は指の血で忠誠を示す文字を襟に書き、降伏を拒んで殺された。
高宗の海上避難へ
杜充降伏の報に高宗は動揺し、呂頤浩の献策で海路避難を決意、明州へ向かった。兀朮は独松関を突破して臨安に迫り、高宗はついに海上へ逃れることとなった。
評語
苗劉の乱平定は韓世忠の功に負うところが大きいのに、高宗は江淮の守りを世忠に任せず、逃亡歴のある杜充に委ねた失策を犯した。呂頤浩を用い杜充を将としたことが、高宗が幾度も逃亡を重ねる原因になったと筆者は断じる。