宋史演義第五十七回 深巌に入り叛首を擒うるを得/朔方を征し再び王師を挫く (入深巖得擒叛首  征朔方再挫王師)

宋江らの帰郷

辛興宗・楊惟忠は杭州入城後、宋江らの功を軽んじ「大罪の贖いに過ぎない」と冷遇する。王稟は撫恤を主張するが取り合われない。宋江らは多くの仲間を失ったことを悲しみ、疲弊もあって帰郷を願い出る。片腕を失った武松は出家を選び、宋江以下も路銀を受け取る者・受け取らない者それぞれに去っていった。以後の消息は詳らかでなく、隠遁したとされる。

睦州・幫源峒の攻略と方臘の最期

杭州陥落で精鋭を失った方臘は清溪に逃げ帰る。官軍は各路から進撃し、旌徳・寧国・歙州などを次々に奪還、睦州も陥落させる。一方、霍城で富裘道人が方臘に呼応して蜂起し東陽・義烏など諸県を荒らすが、劉光世が衢州の賊将鄭魔王を討ち、姚平仲・張思正らも浙東各地を平定する。王稟は清溪に迫り、方臘は幫源峒に籠城。官軍は峒口を焼き払って突入し、賊は徹底抗戦するが、小校(後の名将韓世忠)が野婦の道案内で方臘の潜伏先を突き止め、単身斬り込んで方臘を生け捕りにする。しかし到着した辛興宗が韓世忠から方臘を取り上げ、自らの功績として奏上した。方臘軍討伐で斬首七万級、破壊は六州五十二県、殺害された民は二百万に及んだという。方臘は京師に送られ凌遅処死、妻子も誅殺された。童貫は太師・楚国公に封ぜられた。

金による遼中京・西京の攻略

金主の命で斜也が遼の中京を攻めると遼兵は城を捨てて逃走、金軍は澤州・西京と進撃を続ける。天祚帝延禧は鴛鴦濼で遊猟中に急報を受けて雲中へ敗走し、伝国璽まで桑乾河に落として失う。金軍はさらに夾山方面へ追撃し西京も陥落、東勝諸州も次々に金の手に落ちた。金主に捕らわれた遼の将阿疏は減刑され杖罪で放免される。金は宋に対し早期の燕京攻撃を促す使者を送った。

童貫らの第一次北伐失敗

王黼は「遼の滅亡は必至、今取らねば燕雲は女真のものになる」と徽宗に進言し北伐を主導。童貫を両河宣撫使、蔡攸を副として十五万の兵を北へ向かわせる。蔡攸は軍事を知らぬまま驕慢に振る舞い、種師道の諫言も童貫に退けられる。東路(种師道)・西路(辛興宗)に分かれて進軍するも、白溝・范村でいずれも遼の常勝軍(耶律大石ら)に撃退され敗走。遼の使者にも理を尽くして詰問され、童貫は満足に答えられなかった。种師道は左遷され、劉延慶が代わって軍を率いることになる。

燕京の耶律淳政権と遼の内紛

天祚帝が夾山に逃れ号令が届かなくなると、燕京では李処温らが耶律淳を擁立し「天錫皇帝」を称する独自政権が樹立される。淳は病死し、蕭徳妃・蕭幹らが秦王定(天祚帝次子)を擁立し「徳興」と改元。宮廷内では、天祚帝の寵妃文妃蕭氏が晋王擁立の嫌疑をかけられ賜死、晋王敖盧幹も絞殺されるなど粛清が相次ぎ、権臣蕭奉先も後に処刑される。李処温も金・宋への内通を疑われ蕭徳妃に処刑された。

郭薬師の降伏と第二次北伐失敗

蕭幹が燕京で専権を振るい人心が離れる中、宋は再度北伐を決行。遼の常勝軍を率いる郭薬師は形勢を見て涿・易二州とともに童貫に投降する。劉延慶が薬師を先鋒に十万で進軍するが軍紀は乱れ、良郷で蕭幹軍に撃退される。薬師の奇襲策で燕京突入に成功するも劉光世の援軍が来ず、蕭幹の反撃で撤退。さらに劉延慶は蕭幹の偽計(夜襲を装った火計)にかかり、味方討ちの大混乱の末に潰走、雄州まで敗走した。童貫はやむなく金に夾攻を求める使者を送る。

評語

方臘討伐に十五万の兵と四百五十日を要したが、実際に方臘を生け捕ったのは一介の小校・韓世忠の功であり、それを童貫が横取りして太師・楚国公にまで叙せられたことを厳しく批判する。すでに衰えた遼にすら宋は連戦連敗で、金と渡り合う力量など望むべくもないと喝破し、この驕った出兵こそが後の禍根であると総括する。