宋史演義第五十六回 海州を知り及時雨を収降す/杭城を破り智多星の計を出す (知海州收降及時雨 破杭城計出智多星)

宋江、海賊まがいの南下と伏撃

宋江は数千の手勢を率いて海辺に至り、停泊中の商船数十艘を奪って南下する。海州近くで巡邏の小舟に遭遇し、露見を恐れて先制攻撃で追い払うが、吳用の警戒により葦の茂みに潜む伏兵と巡船の挟撃に遭う。官軍が火攻めを仕掛け、宋江軍の船は次々炎上、辛くも血路を開いて多くの手勢と船を失いながら脱出する。

吳用の進言と降伏交渉

残った三阮・二童・二張・武松・柴進らが合流するも意気消沈。吳用は「兄弟たちの命を救うのが先決」と宋江を諭す。官軍の旗に「張」の字を見た宋江に、吳用は西陲での用兵で名高い張叔夜だろうと推測し、抗戦より投降を勧める。宋江は吳用を使者として海州に遣わし、張叔夜は快く投降を許し、方臘討伐で功を立てさせることを約束する。

張叔夜との対面

翌日、宋江は吳用らと海州に赴き張叔夜に謁見。叔夜は威厳をもって「誠心投降するなら追及しない、方臘討伐で功を立てよ」と諭し、宋江らは感激して臣従を誓う。叔夜は宋江に梁山泊へ戻り一同を率いて江南へ赴くよう命じ、宋江は寨を解散し百余名の手勢のみを連れて南下する。

辛興宗の傲慢

浙西の江漲橋で方七佛軍と交戦中の辛興宗軍に合流した宋江は、杭州奪還への先鋒を志願するが、辛興宗はわずか百余人の手勢を嘲笑し、功を妬んで冷遇する。吳用がへつらって取りなし、辛興宗はしぶしぶ配下の一隊を付けて杭州攻めを許す。宋江は辛興宗の態度に憤りつつも、吳用の説得で杭州攻略に専念することにする。

湧金門からの潜入と張順の死

杭州の守りは堅く、力攻めは困難と判断した宋江・吳用は、湧金門下の水路から城内に忍び込む策を立てる。張順が志願し、張横・三阮を伴って夜半に池に入るが、水中の鉄柵と鈴の仕掛けに阻まれる。単身柵を破ろうとした張順は、閘板を落とされて圧死する。張横は悲嘆にくれつつ仲間に止められ撤退する。

王稟の来援と劉唐・時遷の死

中軍統制王稟が到着し、宋江らの労をねぎらい協力を約束する。翌日の総攻撃で梁山勢は奮戦するも、城門突入を図った劉唐らは内城の閘板で退路を断たれ、力尽きて全滅する。さらに夜、時遷が単身城壁をよじ登ろうとするが、守備側が仕掛けた偽物の大蛇に驚いて転落死する。

糧船に偽装した奇計と杭州陥落

王稟は兵糧船に偽装して兵器を城内に運び込む奇計を発案、吳用も賛同する。凌振・杜興・三阮ら男衆は艄公、扈三娘・顧大嫂・孫二娘は艄婆に扮し、兵器を糧俵に隠して糧船に紛れて入城。城内で号砲を合図に武松・李逵らが城壁を登って呼応し、内外呼応して城内は大混乱、王稟軍も突入して守備兵を殲滅する。方七佛は南門から逃走するが、武松が単身追撃して片腕を斬られながらも張横らの加勢で捕縛する。方七佛は張順らを弔う犠牲として処刑された。

評語

本回の宋江招降・杭州奪還の顛末は正史に見えないが稗史・杭州の伝承(張順・時遷・武松の祠墓)に基づくもので信憑性があるとする。ただし俗説にある「宋江が平南都総管に任ぜられ方臘討伐の全軍を率いた」話や「武松が独力で方臘を捕らえた」話は誤伝であり、方臘を捕らえたのは韓世忠であって正史に明記されていると訂正する。