宋史演義第五十五回 幫源峒にて方臘竿を掲ぐ/梁山泊にて宋江寨を結ぶ (幫源峒方臘揭竿 梁山泊宋江結寨)
方臘の挙兵
宣和二年、睦州清溪の方臘が乱を起こす。方臘はもとは邪教めいた説法で信者を集め金を巻き上げていたに過ぎなかったが、蘇州・杭州の応奉局や花石綱が民間の漆などの物資を勝手に取り立て、自身も損失を被ったことから朝廷への恨みを深めていた。方臘は推背図をもじった予言の四句を作って自分こそ真主だと吹聴し、唐代に睦州で反乱を起こした女帝僭称者の故事も引き合いに出して民衆を煽動、幫源峒を根拠地に「聖公」を称して挙兵した。頭巾の色で身分を分ける即席の官制を敷き、武器も乏しいまま近隣を襲い始めた。
官軍の壊滅
方臘軍は民家を破壊し財を奪い、婦女子を峒中に連れ去った。両浙都監の蔡遵・顔坦が五千の兵で討伐に向かうが、方臘軍が女子供ばかりを前面に出す奇策で油断を誘い、追撃した官軍を陥穽と伏兵で殲滅する。顔坦以下千余人が穴に落とされて生き埋めにされ、後続の蔡遵も山谷で退路を石木で塞がれて全滅、蔡遵自身も乱軍の中で戦死した。
睦州・杭州の陥落
方臘軍は睦州を落とし、歙州も守将郭師中を討ち取って陥落させる。さらに桐廬・富陽を掠め、杭州に迫った。知州趙霆は木製の巨人像で威嚇されて怖じ気づき、いち早く城を捨てて逃亡。置制使陳建・廉訪使趙約も逃げ遅れて捕らえられた。方臘は入城後、捕らえた官吏を次々と酒宴の余興のように惨殺し、婦女を凌辱し、六日間にわたり杭州を焼き尽くした。
朝廷の対応
凶報が続くも、太宰王黼は北伐準備を優先して奏上を握りつぶしていたが、淮南発運使陳遘の直訴でようやく徽宗の知るところとなる。童貫を江・淮・荊・浙宣撫使、譚稹を両湖制置使、王稟を統制に任じ、さらに陝西六路の精兵も動員して総勢十五万を南下させた。童貫らが金陵に至ったのは宣和三年の初春であった。
各地の陥落と秀州死守
方臘軍は婺州・衢州を陥れ、衢州守の彭汝方は殺され、処州も陥落。杭州の賊将方七佛は秀州を攻めるが、統軍王子武の防戦と辛興宗・楊惟忠・王稟らの援軍によって撃退され、秀州は持ちこたえた。方臘軍は西に転じ寧国・旌徳などを陥れ、官軍は兵力を分散させられる。
宋江と梁山泊の紹介
淮南ではもう一人の巨盗、宋江が三十六人を率いて河朔一帯を荒らし回っていた。著者は、世に流布する『水滸伝』は多くが虚構であり、正史では宋江の乱は小規模で早期に鎮圧されたに過ぎないと断りつつ、稗史や杭州に残る張順祠・時遷廟・武松墓などの伝承も踏まえて叙述すると述べる。宋江は鄆城県の押司であったが罪を得て梁山泊に逃げ込み、仲間に推されて頭領となった。梁山泊の来歴(漢の梁孝王に由来する地名)を紹介したうえで、宋江のもとに次第に無頼の徒が集まり、百八人の頭目(天罡星三十六・地煞星七十二)が揃って全盛期を迎えたことを記す(本文に百八人の綽号一覧あり)。
招安をめぐる動きと出航
知亳州侯蒙は宋江の才を惜しみ、赦して方臘討伐に当てるよう上言するが、侯蒙は赴任前に病没し招撫は立ち消えとなる。京東の官軍はたびたび敗れ、宋江の勢力はますます拡大した。宋江らは吳用の進言により、まず富庶な江南方面を襲おうと衆議一決し、海路南下して淮・揚を襲う計画を立てる。しかし海州では張叔夜が密かに備えを固め、宋江らの来襲を待ち構えていた。
評語
方臘・宋江はともに無頼から身を起こした者だが、貪官汚吏の圧政がなければ叛乱には至らなかったろうと説く。乱の大小・悪行の多寡には差があり、方臘には情状酌量の余地がないが宋江にはやや同情的な筆致をとりつつも、根本の責は官吏の苛斂誅求にあると総括する。