宋史演義第五十四回 雄邦を造り強きを恃み帝を称す/遠使を通じ金と約し遼を攻む (造雄邦恃強稱帝  通遠使約金攻遼)

劉法の敗死

童貫は西方経略の功で次々と昇進を重ねた。政和八年(重和に改元)にはさらに太保に進む。翌年(宣和に改元)童貫は功を焦り、渋る劉法に朔方攻略を強要した。劉法は統安城で夏主の弟察哥の軍と戦い、初めは互角に戦ったが、夏軍の別動隊が背後を突いて宋軍は総崩れとなる。劉法は夜陰に紛れて逃走したが、途上で夏の輜重兵に正体を見破られ殺害され、首級を奪われた。察哥は「劉法ほどの将が驕って軽々しく出陣した末路だ」と部下を戒め、なお進撃して震武城に迫ったが「この城は南朝の病巣として残しておくのがよい」と兵を退いた。

童貫は劉法の敗死を隠蔽し、逆に「守兵が敵を撃退した」と偽って報告、遼を介して西夏との和議を進めた。遼も金との戦いを抱えて宋との対立を避けたく、夏主乾順も厭戦から和を望んだため、童貫は「夏主が畏服し帰順を願い出た」と奏上し、六路の兵を解いて自らは太傅・涇国公に進み、「媼相」と称されるまでになった。

女真の勃興と金の建国

童貫が凱旋した頃、蔡京は遼攻略を画策し、馬政を海路金に派遣して挟撃を約させた。ここで女真(後の金)の経緯が語られる。政和二年、遼の天祚帝が混同江で女真の酋長たちに舞を強いた際、阿骨打だけが応じず、遼主の怒りを買ったが北院枢密使蕭奉先の諫めで難を逃れた。阿骨打はこれを機に警戒を強め、諸部族を併呑して勢力を拡大、兄烏雅束の死後は遼に喪も告げず自立した。

遼の鷹狩り遠征に伴う女真への過酷な徴発が各部の不満を招く中、阿骨打はかねて遼に匿われていた仇敵阿疏の引き渡しを求めても得られず、ついに挙兵。寧江州を落とし、遼の援軍を出河店で撃破した。弟の吳乞買らの勧めで、政和五年正月、按出虎水のほとりで帝位に即き、国号を「大金」、自らの名を旻と改めた。吳乞買を諳班勃極烈(最高位の官)、撤改・斜也を国論勃極烈とした。

遼の混乱と金の攻勢

金軍は勢力一万を超え、遼との交渉は互いに「臣従せよ」と譲らず決裂、金は黄龍府を攻略した。遼の天祚帝は七十万と号する大軍で親征したが、金主は劣勢を悟りつつも将士に鼓舞されて迎撃を決意、堅陣で対峙するうち、遼軍内部で副都統章奴が耶律淳擁立を謀って反乱を起こし、遼主は退却を余儀なくされる。金はこれを追撃し護步答岡で遼軍主力を撃破、遼主は上京に逃げ戻り、乱を起こした章奴も討たれた。

続いて遼の東京でも渤海人の反乱や稗将高永昌の自立騒動が起き、遼は混乱を深める。高永昌は金に救援を求めるも要求(僭号の放棄と帰順)を拒んで敗死し、遼の東京とその周辺は金に降った。

遼は耶律淳を都元帥に任じ「怨軍」を組織して抵抗を図る一方、金との和議も模索したが、金は「兄事の礼」と国号「大金」の正式使用を求めて譲らず、遼が体裁を繕った「東懐国」の冊封を金主が突き返したことで交渉は決裂した。

宋・金同盟の交渉

蔡京はこの機に金と結んで燕雲の奪還を図ろうとし、馬政を金に派遣、金主は使者李善慶らを伴わせて汴京へ送った。以後、両国は使者を往復させたが、中書舎人吳時と布衣安堯臣がそれぞれ北伐に反対する上疏を行った。特に安堯臣の上疏は、燕雲出兵が辺境の禍を開き宦官の専権を助長すると説き、秦・隋・唐の失敗と周・漢・光武の成功例を引いて、童貫・蔡京・趙良嗣らの北伐論を厳しく批判する内容であった。高麗からの帰国医師も「女真は虎狼のような存在で結ぶべきではない」と徽宗に伝え、徽宗は一時計画の中止を考えたが、蔡京・童貫、さらに少宰に昇進した王黼が結託して反対論者を退け、再び対金交渉を進めさせた。

趙良嗣が金に赴いた頃、金は遼の上京を攻略し、宋・遼両国の使者に戦況を見せつけるように陥落させた。趙良嗣は金主に酒を捧げ万歳を唱えるという卑屈な振る舞いを見せる。金主は帰国の途上、良嗣に「燕雲は宋、中京は金がそれぞれ攻略し、南北から遼を挟撃する」との盟約案を示し、良嗣もこれに同意、両国の間で国書が交わされて宋金同盟(のちの海上の盟)が成立した。

開戦準備と方臘の乱

金からの返書を受け、童貫に出兵の詔が下ろうとした矢先、鄭居中は蔡京に「盟約を破って事を起こすのは得策でない、漢代の和親費用と比べても歳幣は安いものだ、貪功で戦端を開けば万民が犠牲になる、責は貴公にある」と諫めたが、蔡京は既に金と約した以上引けないとしてこれを退け、童貫と共に開戦を決めた。しかし折しも両浙で方臘の乱が勃発し、睦州・歙州・杭州が次々陥落したため、徽宗は北伐を一時中止し南征を優先することとなった。

評語

著者は、遼の天祚帝が淫乱・無道であったために女真が東北で台頭し僭称するに至ったのは遼自らの招いた滅亡であるとする。宋が金と結んで遼を攻めた策そのものは、燕雲十六州回復の好機と捉えれば必ずしも失策ではなかったとしつつも、その主導者が蔡京・童貫のような人物であり、時機も誤っていたために禍を招いたと論じる。「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」との兵法を引き、徽宗のような君主、蔡京・童貫のような臣下に遠国を制御する力はなく、太平に慣れた将兵が異民族に勝てるはずもないと断ずる。女真とは元来交誼もなかったのに軽々しく使者を送り、強弱もはっきりしないうちに軽んじられたことを「虎を拒みて狼を引く」行為と喩え、これが北宋滅亡の遠因になったと結ぶ。