宋史演義第四十六回 妾を寵し妻を廃し皇綱倒置す/邪を崇め正を黜け党獄迭に興る (寵妾廢妻皇綱倒置 崇邪黜正黨獄迭興)
劉婕妤の専寵と范祖禹らの排斥
劉婕妤が宮中で孟皇后を凌ぐ寵愛を得たことに乗じ、章惇・蔡京は宮中に取り入り、以前范祖禹が乳母の件で諫言した話を婕妤への当てこすりとみなして誣告罪に仕立て、劉安世を巻き込んで両者を辺境へ流罪にする。劉婕妤は内外に手を回して皇后の座を狙い始める。
儀礼の場での孟后と劉婕妤の確執
景霊宮の参拝で、儀礼上下位に控えるはずの劉婕妤が皇后と同格の扱いを求めて反発したり、冬至の朝賀で内侍の郝隨が皇后専用の椅子と同じ格の椅子を婕妤に用意したりと、婕妤は次第に増長する。ある日、太皇太后が現れると偽って一同を立たせ、その隙に婕妤の椅子を撤去させるといういたずらが仕組まれ、婕妤は座ろうとして無様に転倒し、一同の失笑を買う。婕妤はこれを孟后の差し金と思い込み、深く恨みを募らせる。
婕妤の讒言と哲宗の溺愛
婕妤は哲宗に泣いて訴え、郝隨も皇后の陰謀と決めつけて讒言する。哲宗は最初皇后を疑わなかったが、婕妤の涙と甘えに絆され、次第に讒言を信じるようになっていく。
皇后への呪詛疑惑と冤獄の構築
皇后の姪の福慶公主が病に伏した際、皇后の姉が民間の道士の符水を用いて治療しようとしたことが宮中で問題視され、噂が広まる。さらに皇后の養母や女尼、供奉官が皇后のために祈祷していたことが郝隨らに密告され、哲宗は梁従政・蘇珪に命じて宦官・宮女三十人を捕らえ拷問させる。梁・蘇は章惇の指示と郝隨の意を受けて、証拠がないまま皇后を陥れる供述をでっち上げる。侍御史董敦逸は再調査を命じられるが、郝隨の脅しに屈し、原判断のまま復奏してしまう。哲宗は詔を下し孟皇后を廃し、瑤華宮に移して道号を与えた。天候が急変するなど異変が続き、董敦逸は良心の呵責から皇后復権を訴える上書を行うが、哲宗は逆に敦逸を退けようとし、曾布のとりなしでかろうじて留任させる。哲宗は後に「章惇が朕の名節を汚した」と漏らしており、廃后の裏に章惇の策謀があったことをうかがわせる。皇后位は空位となり、劉婕妤は賢妃への昇格にとどまった。
元祐旧臣への大規模粛清
章惇はさらに宣仁太后の追罪すら狙うが果たせず、代わって元祐の旧臣たちへの弾劾を拡大する。司馬光・呂公著らは死後も官位を追貶され、王巖叟・趙瞻・傅堯俞らも処分を受けた。渭州の呂大忠が兄弟の呂大防への寛大な扱いを哲宗から内々に聞き知り、章惇に伝えてしまったところ、章惇はこれを利用して呂大防・劉摯・蘇轍・梁燾・范純仁ら多数の元祐派官僚を一斉に嶺南や辺境へ流罪にする詔を出させた。洛党・蜀党・朔党を問わず、元祐の名臣がことごとく朝廷から一掃された。范純仁は左遷にあたっても信念を曲げず、老齢と失明の身でも泰然と赴任し、船が転覆する災難に遭っても取り乱さなかった。呂大防は流刑地への途上で病没し、梁燾・劉摯も配所で相次いで世を去った。文彦博も左遷の沙汰を受けた直後に92歳で病没している。
章惇・蔡卞のさらなる陰謀
蔡卞・黄履らは漢・唐の故事に倣い元祐党人の誅殺まで求めたが、許将の諫言で哲宗は思いとどまり、大量誅殺は避けられた。章惇はなおも邢恕を使嗾し、高遵裕の子・高士京を巧みに誘導して、王珪がかつて哲宗即位に異議を唱えたという虚偽の証言を仕立てさせ、王珪を追貶、高遵裕には逆に贈官する。
天変地異と伝国璽騒動、同文館の獄
太原の地震や天体異変が相次ぎ、「賊は君側にあり」との占いが出るが、哲宗は反省の姿勢を見せるにとどまり奸党を退けなかった。章惇・蔡京は人心をつなぎとめるため、咸陽で見つかったという玉印を秦の伝国璽と偽って献上させる茶番を演出し、これを機に紹聖から元符へと改元、大赦を行うが元祐党人だけは除外し、文彦博の子・文及甫や劉摯・梁燾の子孫まで処罰する「同文館の獄」を引き起こす。邢恕は文及甫のかつての書簡を利用し、劉摯・王巖叟・梁燾らが不穏な言辞を弄していたと誣告させ、蔡京・安惇の取り調べで自白を強要、哲宗も半信半疑ながら子孫の処罰を認めてしまう。
章惇の執念と次なる陰謀
章惇は范祖禹・劉安世をさらに遠方へ流罪にし、暗殺者まで送るが失敗、范祖禹は配所で病没した。それでも章惇は蔡卞・邢恕と結んで、元祐の政変の責任を亡き宣仁太后本人に負わせようとする企てにまで及ぼうとしていた。
評語
章惇こそ宋室第一の国賊であり、蔡卞らはその手先にすぎない。章惇が宰相の座を得なければ奸党の跳梁も冤獄も起こらなかった。孟皇后の廃位も劉婕妤の陰謀に見えて、実際にそれを仕組んだのは章惇である。紹述の議も楊畏・李清臣が言い出したものだが、元祐諸臣を根こそぎ追放できたのは章惇の力による。廃后だけでは飽き足らず賢臣を一掃し、それでも足りずに亡き宣仁太后にまで罪を着せようとした章惇の陰険さは、王莽・曹操をも上回る。この一回を読んで憤らぬ者は人の心を持たぬに等しい。