宋史演義第四十五回 後事を嘱し賢后升遐す/先朝を紹ぎ姦臣禍を煽る (囑後事賢后升遐 紹先朝姦臣煽禍)
蘇軾の復官と遼使との応酬
范純仁が地方転出した後、太皇太后(宣仁太后)は蘇頌を尚書右僕射兼中書侍郎に、蘇轍を門下侍郎に、范百祿を中書侍郎に抜擢するなど人事を刷新した。遼の使者来朝を機に蘇軾も兵部尚書兼侍読として召し戻される。かつて翰林学士として遼使の接待にあたっていた蘇軾は、対句遊びで難題を次々と当意即妙にさばき、遼の使者を感服させた逸話が語られる。哲宗の大婚に際して蘇軾の不在を遼使が惜しんだこともあり、太皇太后は蘇軾を再び宮中に呼び戻し、礼部兼端明侍読二学士へ昇進させた。
蘇軾兄弟への弾劾と旧臣たちの去就
御史の董敦逸・黄慶基が、蘇軾がかつて呂惠卿の左遷詔を起草した際に先帝を暗に非難したとして、弟の蘇轍とともに朝政を乱したと弾劾する。呂大防らが弁護し、太皇太后も先帝自身が過去を悔いていたと擁護、結局董・黄の二人を地方の転運判官に左遷し、蘇軾も定州知事に出す。蘇頌が推薦した賈易も弾劾を受け、蘇頌自身も楊畏らに攻撃されて観文殿大学士に退けられる。范百祿・梁燾も相次いで職を退き、范純仁が改めて尚書右僕射兼中書侍郎に召し返される。楊畏らは純仁の再任に反対し章惇・呂惠卿らの登用を求めたが、この時はまだ聞き入れられなかった。呂大防が楊畏を諫議大夫に推そうとした際、范純仁は楊畏が信用できない人物だと警告し、後の伏線となる。
宣仁太后の遺言と崩御
元祐八年八月、太皇太后が病に倒れる。呂大防・范純仁を召し、自らの死期を悟りつつ、幼い皇帝(哲宗)が側近に惑わされぬよう守り立ててほしいと託す。范純仁には亡父范仲淹の忠義に倣うよう諭す。哲宗が将来二人の諫言を聞かなくなったら早々に身を引くようにとも言い残し、間もなく崩御した。太皇太后は九年にわたり摂政し、政治は清明で国も安定、遼主すら仁宗期の善政が復活したと警戒したという。夏との関係も融和し、四寨を返還するなど民を安んじる政策を取った。太皇太后は身内の外戚にも特権を与えず、公私を厳格に分けた人物として「女中の堯・舜」と称えられ、崩御後「宣仁聖烈」の諡を贈られた。
哲宗の親政開始と范祖禹の諫言
哲宗は親政を始めるや、賢臣を求めるより先に宦官十人を召し入れる。翰林学士范祖禹はこれを諫めるが聞き入れられず、逆に諫言した侍講の豊稷は左遷される。范祖禹はなおも上疏を重ね、熙寧以来の新法や王安石・呂惠卿の弊政、辺境での度重なる無理な軍事行動が民を苦しめた経緯を説き、旧法党人士が再び排斥されることを危惧した。また漢・唐が宦官によって滅びた故事を引き、熙寧・元豐期に権勢を振るった宦官李憲・王中正・宋用臣らの子弟が今また召し出されようとしていることに強く警鐘を鳴らした。しかし哲宗はこれらの諫言をことごとく聞き流した。
呂大防の失脚と紹述路線の始動
呂大防が先帝陵造営の大使として都を離れた隙に、楊畏が寝返って神宗の旧制継承を進言、章惇・安燾・呂惠卿・鄧潤甫・李清臣らの起用を勧める。哲宗はこれを信じ、章惇・呂惠卿の官職を復し、李清臣・鄧潤甫を重用した。都に戻った呂大防は弾劾を受けて自ら辞職を申し出、哲宗は即座にこれを許す。かくして朝廷は神宗の政策を継承する「紹述」の空気に染まっていく。元祐九年三月の進士試験で、李清臣は元祐の施策(詞賦選抜・免役法・河川政策・対夏政策・塩鉄専売緩和など)をことごとく批判する策題を出題した。門下侍郎蘇轍はこれに強く反論し、先帝の施策にも見直すべき点はあり、それを正すのは子の孝であるとして、前漢・後漢・宋初以来の故事を引きながら軽々に元祐九年の施策を覆すことを諫めた。
蘇轍の抗弁と哲宗の激怒
哲宗は蘇轍の上奏を先帝を漢の武帝に例えたものと曲解して激怒し、処罰しようとする。范純仁が武帝は史家からも評価される人物であり誹謗にはあたらないと弁護、鄧潤甫が司馬光・蘇轍が先帝の法度を壊したと非難すると、純仁は法に弊害があれば改めるのは当然と反論して哲宗をなだめた。結局蘇轍は官を降ろされ汝州知事に左遷される。進士の採点でも楊畏が元祐派を推す答案を下位に落とし、新法賛美派を上位に繰り上げるなど、紹述派の巻き返しが露骨に進む。
章惇の専権と元祐旧臣への弾圧
章惇が尚書左僕射兼門下侍郎として宰相となり、蘇軾は英州、さらに恵州へと流される。范祖禹・范純仁ら旧法派の重臣も次々と地方に追われる一方、蔡京・蔡卞・林希・黄履ら紹述派が要職に就く。黄履はかつて蔡確・章惇らと結託し元祐初年に弾劾された経歴を持つが、章惇の再登用で復権し、旧怨を晴らすべく元祐の名臣たちを陥れにかかる。曾布の上奏により元祐九年四月、年号は「紹聖」に改められ、免役法など旧法の多くが復活、王安石の学説禁止令も解かれる。黄履・張商英らは司馬光・呂公著を非難し、章惇・蔡卞は両者の墓を暴くことまで求めたが、許将の諫言で哲宗はこれを思いとどまり、贈られていた諡号の剥奪と墓碑の破棄にとどめた。呂大防・劉摯・蘇轍らはさらに左遷され、章惇は文彦博ら三十人の元祐派を嶺南へ流罪にするよう求めるが、李清臣は自身の思惑(宰相の座を章惇に奪われた不満)もあって寛大な処置を進言し、哲宗もこれに従い罪を軽くする詔を出した。
さらに章惇は呂惠卿の登用を図るが、監察御史常安民はその不忠な経歴を指摘して反対し、実際に呂惠卿は哲宗の前で先帝への忠誠を涙ながらに訴えるも取り立てられず地方へ赴くことになった。常安民はその後も蔡京・張商英、さらに章惇自身の専横を弾劾し続けたため、章惇の恨みを買って懐柔も拒み、最終的に讒言により左遷される。蔡卞は『神宗実録』を再編纂して旧史官の范祖禹・趙彦若・黄庭堅らを誣告の罪で流罪にし、監修者だった呂大防も連座で流される。范純仁が呂大防の赦免を求めたことで章惇の怒りを買い、純仁自身も左遷された。章惇はさらに亡き蔡確の名誉回復を図り、その子の訴えを容れて官職と諡号を追贈する。こうして章惇は蔡京と謀り、宮中の劉婕妤を内応に引き入れるなど、朝廷を私する動きを着々と進めていった。
評語
宣仁太后の治世は元祐の善政として宋代随一と称えられるが、臨終に際して呂大防・范純仁へ早期の引退を勧め、翌年の秋祭には自分を偲ぶだろうと涙ながらに語ったのは、哲宗の将来の暗君ぶりをすでに見抜いていたからではないか。実際、哲宗の親政開始とともに奸党が次々に登用されたことは、その資質の未熟さを物語る。宣仁も生前は垂簾聴政の権をもって奸悪を抑えていたにすぎず、死に臨んでは言いたくても言えぬ苦しさがあったのだろう。宣仁は仁であったが哲宗は哲ではなかった。呂大防・范純仁が退き章惇・蔡京が進んだことこそ、宋室の興亡を分けた分岐点であった。