宋史演義第四十四回 三党に分かれ廷臣釁を構う/六礼を備え后を冊し儀を正す (分三黨廷臣構釁  備六禮冊后正儀)

蘇軾の栄遇

司馬光の死後、呂公著が政権を継ぎ、呂大防・劉摯・蘇軾らが要職に進んだ。蘇軾はある夜、太皇太后から召し出され、先帝神宗が生前から蘇軾の文才を「奇才」と評していたことを明かされ、感激のあまり号泣し、太皇太后・哲宗も涙した。太皇太后は蘇軾を側に座らせて茶を賜り、灯火を捧げ持たせて送らせるという破格の礼遇を与えた。

洛党・蜀党・朔党の対立

蘇軾は言論で時政を批判し続け、程頤とは気質が合わず、司馬光の喪の際の礼儀をめぐって皮肉を言い合うなど不和を深めた。蘇軾の出題した試験問題が先帝誹謗と取られ、程頤門下の賈易・朱光庭に弾劾されたが、太皇太后の裁定で事なきを得た。程頤も哲宗の病臥をめぐる発言で弾劾され西京国子監に左遷された。こうして程頤系の洛党、蘇軾系の蜀党、劉摯・梁燾らの朔党が形成され、互いに弾劾し合う党争が常態化した。文彦博・呂公著は高齢のため次第に退き、范純仁・呂大防らが穏健に政務を執った。范鎮は召還を固辞して病没、呂公著も病没し、その人柄と富弼の遺表を届けた范祖禹の逸話などが語られる。

蔡確事件

知漢陽軍呉処厚が蔡確の詩を君主誹謗として告発し、台諫の弾劾により蔡確は左遷、さらに新州へ流罪となった。范純仁は寛大な処置を求めたが、太皇太后は邢恕・梁燾の証言から蔡確に「哲宗を廃して自分の擁立した皇子を立てようとした」疑いありとして強く処罰した。范純仁も蔡確をかばったとして弾劾され地方へ左遷、劉摯・王巖叟・梁燾らも党派抗争の中で次々に外任となり、蘇軾・程頤らも各地へ転出するなど、三党の消長が繰り返された。

哲宗の立后

元祐七年、十七歳になった哲宗の后として孟氏(眉州防禦使孟元の孫女)が選ばれ、太皇太后・皇太后の薫陶を受けた。呂大防を奉迎使とする盛大な六礼の儀が執り行われ、哲宗自ら殿を出て后を迎え入れるなど格別に鄭重な婚儀となった。太皇太后は孟后の賢淑を喜びつつも「福薄く、のちに国家の変事に連座して禍を受けるのでは」と案じる言葉を残した。婚儀の後、哲宗は容色で劣る孟后より、艶やかな劉婕妤に心を移していく。

評語

元祐初年、高后垂簾のもと賢臣が多く登用され、朝政は一新されたはずであったが、程頤・蘇軾の不和に端を発する洛党・蜀党の対立に朔党まで加わり、三つ巴の党争となったのは元祐の君子たちの過ちであるとする。また孟后の立后についてこの回だけ詳細に儀礼を記したのは、のちの廃后の伏線であるためで、高太后が「賢内助を得た意義は大きい」と諭した真心にもかかわらず、後に裏切られる結末を暗示していると述べる。