宋史演義第四十三回 幼主を立て高后簾を垂る/首相を拝し温公国に殉ず (立幼主高后垂簾  拜首相溫公殉國)

神宗の崩御と哲宗の即位

元豊八年正月、神宗の病が篤くなり、輔臣らは皇太子擁立と皇太后の摂政を願い出た。神宗には十四子あったが多くが早世し、第六子で十歳の延安郡王傭が最年長として残っていた。職方員外郎邢恕は蔡確に「年長の岐王・嘉王を立てるべき」と説き、高太后の甥高公繪に取り入ろうとしたが拒絶され、さらに蔡確は王珪を脅して延安郡王擁立を妨げようとしたが、王珪が先手を打って延安郡王の立太子を決めてしまい、蔡確の策謀は不発に終わった。神宗は三十八歳で崩御し、延安郡王煦が即位(哲宗)、高太皇太后が摂政となった。

高太皇太后の新政

太皇太后は役夫の解散や苛斂の禁止など寛政の詔を次々発し、蔡確が媚びを売って高遵裕の復官を求めた際も、靈州敗戦の責任を理由に厳しく退けた。京城の巡邏廃止、免行銭廃止、濬河司廃止などを進め、洛陽に隠棲していた司馬光・呂公著を召し戻した。司馬光の入京には民衆が沿道で歓呼し、蔡確ら旧法派は司馬光の言論を封じる六議なる規定で対抗しようとしたが、司馬光の抗議で改められた。

司馬光の入相と新法廃止

王珪の死去に伴い司馬光が門下侍郎として入朝し、三年喪に服すべきとの新法擁護論を「先帝の法でも害あれば直ちに改めるべき、まして太皇太后が子の政を改めるのは筋が通る」と論破した。呂公著も要職に復帰し、両者は青苗・保甲・保馬・方田・市易などの新法を次々に廃止、呂嘉問ら呂党を処分し、蔡確を陳州へ左遷した。司馬光は尚書左僕射兼門下侍郎に、呂公著は門下侍郎に任じられた。

差役法をめぐる論争

司馬光は病をおして免役法・青苗法の廃止に取り組んだが、免役法を廃して差役法へ戻す件では章惇と激論の末、章惇は左遷された。蘇軾は「免役・差役どちらにも一長一短があり、拙速な改変は民を驚かせる」と諫めたが司馬光は聞き入れず、范純仁も「独断を戒め人の言を容れるべき」と説いた。蔡京だけが期限内に改革を実行してみせ司馬光の信を得たが、実は日和見の奸物であったことが後に禍根となる。

王安石の死と旧法派の刷新

王安石は金陵で免役法廃止を聞き「胡乱なことを」と嘆いたのち病没し、太皇太后は先朝の功臣として太傅を追贈した。范子淵・韓縝・李憲・王中正ら安石派は次々処分され、呂惠卿は蘇軾起草の痛烈な詔で建州へ流された。范子淵への貶詔も蘇軾の名文として評判となった。文彦博は平章軍国重事として厚遇され、程頤も秘書郎に召され、司馬光の建議で「十科挙士法」が制定された。

司馬光の死

司馬光は激務のため体を損ない、末期にも国事を案じ続けて六十八歳で没した。清廉な生涯を貫いた人柄が偲ばれ、太皇太后・哲宗自ら喪に臨み、太師温国公を追贈、庶民までもが哀悼したと伝えられる。

評語

高太皇太后の垂簾と司馬光の入相により新政が敷かれ、たちまち民心が安定したことは、王・呂・蔡・章らの旧新法がいかに民を苦しめていたかを物語る。ただし司馬光ほどの人物でも蔡京の奸智を見抜けなかった点は惜しまれ、後に司馬光を最も激しく攻撃したのがこの蔡京であったことは皮肉である。また熙豊期の新法派を根絶やしにしなかったため後患を残したとし、高后・司馬光の処断はむしろ寛大に過ぎたのではないかと著者は述べる。