宋史演義第四十二回 西夏を伐ち李憲師を喪う/永楽に城き徐禧陥歿す (伐西夏李憲喪師 城永樂徐禧陷歿)
西夏出兵の決定
蔡確は王珪に「司馬光が入朝すれば弾劾されるが、西夏遠征を主導すれば相位は安泰」と持ちかけ、王珪はこれに乗って俞充を慶州知事に推した。西夏では梁氏が秉常を幽閉し李清を殺害したとの報に、神宗は討伐を決意。孫固は「統帥不在での出兵は危険、まして宦官李憲を将とするのは不可」と諫めたが聞き入れられず、李憲・種諤・高遵裕・劉昌祚・王中正の五路と吐蕃の董氈を動員して大規模な西征が始まった。
五路の敗退
緒戦では李憲が蘭州を、種諤が米脂城を、高遵裕が清遠軍を奪うなど各路が勝利したが、西夏側は年寄りの将の献策で堅壁清野・持久策をとり、決戦を避けて宋軍を消耗させた。高遵裕は劉昌祚の戦功を妬んで攻城を止めさせ、その間に守りを固められた上、黄河の堤を切られて水攻めに遭い大敗。種諤の軍も輜重を断たれ大雪の中で多数が凍死・餓死し、王中正の軍も同様に壊滅的損害を被った。李憲のみは天都山で戦果を挙げたが、他路の敗退を知り撤兵した。神宗は事後に諸将を処罰したが、李憲だけは咎められず、のちも重用され続けた。
永楽城の陥落
その後、種諤・沈括の献策で銀州方面に城を築く計画が持ち上がり、徐禧と種諤の意見対立の末、神宗は徐禧の主張する永楽(銀川寨)築城を採用した。西夏の大軍が来襲すると、徐禧は将の進言(先制攻撃や半渡撃)をことごとく退けて正攻法に固執し、宋軍は大敗して城に籠城するも水源を断たれ、多数の兵が渇死するに至った。援軍も遮断され、大雨の夜に城は陥落、徐禧・李舜舉・高永能ら諸将は戦死し、二十余万の将兵が失われた。
事後処理と再度の攻防
神宗は敗報に衝撃を受け食を絶つほど嘆き、沈括らを処罰した。以後西征への意欲を失ったが、蘭州は夏軍の猛攻を受けつつも王文郁の決死隊の活躍で守り抜かれた。西夏の将から宋の辺将に届いた書状は宋の軽率な開戦を非難する内容だったが、宋は返答して和議に傾き、夏の使者の上表に対し神宗は詔で穏便に応じた。李憲は後に弾劾されて左遷されたが、その後も西夏の大規模侵攻(蘭州包囲など)は防がれた。
司馬光『資治通鑑』の完成
神宗は蒲宗孟を退け王安礼・李清臣を登用し、司馬光が十九年をかけて完成させた『資治通鑑』(周威烈王二十三年より五代までを扱う全三百五十四巻)を賞賛し、資政殿学士を授けた。元豊八年、神宗は病に伏す。
評語
西夏には討つべき明確な理由もなかったが、蔡確が司馬光の登用を防ぐ策として西征を煽り、俞充の献策で五路出兵に至った。孫固・呂公著の諫言は無視され、宦官李憲に重権を託したことは中国の恥であるとし、古来宦官が軍を統べて成功した例はないと批判する。靈州での敗戦後も李憲を罰せず再び重用したのは誤りを重ねたものであり、富弼がかつて「二十年は兵を語らぬ」よう進言した先見を神宗が悟らなかったことを惜しむ。