宋史演義第四十一回 使命を奉じ軍を率い交趾を征す/慈恩を蒙り罪を減じ黄州に謫せらる (奉使命率軍征交趾 蒙慈恩減罪謫黃州)
交趾との緊張激化
交趾は黎桓の簒奪以来、宋から歴代王として封じられてきたが、辺功を焦る知邕州蕭注や度支判官沈起らが南征を唱え、沈起は土丁を編成し融州に城砦を築いて交人を殺害するなど挑発を重ねた。交趾王李乾德の抗議で沈起は罷免され劉彝が後任となったが、劉彝も戦船を建造し交易を拒むなど強硬策を続けたため、交人は欽州・廉州・崑崙関の三方から侵攻し、欽・廉二州を陥落させ多数の土丁を殺害した。
邕州の陥落
交人は邕州にも迫り、知州蘇緘は各所に救援を求めたが周辺の官吏は傍観するばかりだった。糧食も尽きた蘇緘は家族三十六人を先に自尽させ、自らも火に投じて殉じた。城内五万八千余人が虐殺され、宋廷は大いに衝撃を受け、趙卨を招討使、宦官李憲を副使として交趾討伐に向かわせた。
郭逵の南征と和議
趙卨は李憲との不和を理由に郭逵への交代を進言し、郭逵・趙卨が南下した。宋軍は欽州・廉州を奪還し、富良江で交趾水軍を撃破して敵の太子洪真を討ち取ったが、瘴癘により多数の兵が病死したため深追いを避け、広源州など一帯を占領するにとどめた。李乾德が降伏を申し出たため、郭逵らは和議を結んで撤兵し、宋は広源州を順州と改めて赦免し、のちに占領地も返還して交趾は再び臣従した。一方、南征を主導した沈起・劉彝は開衅の罪で処罰された。
王安石の失脚
王安石の子・王雱が呂惠卿を陥れようとして露見し、逆に安石が誣告される事態となり、王雱は父子で口論の末に病没した。鄧綰の慰留も裏目に出て安石は罷免され、江寧府に退いた。安石は「呂惠卿誤我」の語を残して恨みを漏らし、呂惠卿も安石の私信を暴露して対抗した。安石失脚後は呂公著・馮京らが登用され、蔡確は安石に取り入っていたが罷免後は掌を返して安石を非難し、参政に昇進した。
蘇軾の烏台詩案
李定・舒亶らが湖州知事蘇軾の詩を君主誹謗として弾劾し、蘇軾は投獄された。太皇太后曹氏が「文人の詩は常のこと」と神宗に諫言し、王安礼らの取り成しもあって死罪は免れ、黄州団練副使として左遷されるにとどまった。友人の多くが蘇軾と絶交する中、鮮于侁だけは臆せず見舞い、そのため自らも左遷された。黄州で蘇軾は東坡に居を構え「東坡居士」と号し、悠々自適の日々を送った。のち神宗は蘇軾を史書編纂に起用しようとしたが王珪らに阻まれ、代わりに曾鞏を用いた。蘇軾は後に常州への移住を願い出て許された。
太皇太后曹氏の崩御
神宗は熙寧年間の後、元豊と改元した。太皇太后曹氏が崩御し、神宗は生前深く孝養を尽くし、外戚を宮中に近づけぬよう自ら律していた曹氏の遺訓も守られた。曹氏の弟曹佾には官位を贈ったが権力は与えず、曹一族は終始礼を守ったと評される。
官制改革と新旧党争の芽生え
元豊三年、神宗は官制改革を命じ、唐宋の旧称を整理して二十四階の新官制を定めた。神宗が御史大夫に司馬光を起用しようとしたことから、安石派(王珪・蔡確ら)と旧法派(富弼・文彦博・司馬光や道学の諸儒)の対立が表面化した。胡瑗・周敦頤に始まる道学の系譜(程顥・程頤兄弟、邵雍、張載)が紹介され、いずれも新法に反対して隠棲した経緯が語られる。王珪と蔡確は司馬光の登用を恐れて対策を練り始める。
評語
交趾出兵は蕭注・沈起・劉彝の献策に端を発するが、実質は王安石と神宗の責に帰する。邕州の陥落と蘇緘一門の殉難は痛恨事である。神宗が安石を疎んじた後も王珪・蔡確を重用したことについて、著者は両者を安石と同罪とみなし、蘇軾の死罪を免れさせたのは実は太皇太后の力であって神宗の功ではないとしつつも、慈訓を受け入れて才人を赦した点は孝心の表れとして評価している。