宋史演義流民図もて国の為に命を請う/分水嶺の地を割き遼に畀う(第四 十回 流民圖為國請命 分水嶺割地畀遼)
王韶の木征降伏と濬川杷騒動
王韶は木征を降して都に凱旋し、神宗は大いに喜んで王韶を観文殿学士・礼部侍郎、のち枢密副使に抜擢した。王安石はこの辺功を得意げに吹聴した。折しも少華山が崩れ、文彦博がこれを民怨の兆しとして安石を諫めたが容れられず、文彦博は地方へ出た。安石は李公義・黄懷信の献策で「濬川杷」という河底浚渫の器具を導入させたが、実際には水深に応じて使い物にならず、范子淵ら追従の徒がその効果を誇張して事業を続けさせた。
鄭俠の流民図
呂嘉問が免行銭の徴収を再開し、また銅銭の改鋳(折二銭)で民の不満はさらに深まった。熙寧六年から翌年にかけ大旱魃が続き、神宗は憂慮して新法廃止を口にしたが、安石は「旱魃は珍しくない」と押し切り、馮京の諫言も一蹴した。そこへ監安上門の鄭俠が、飢饉に苦しむ流民の惨状を描いた図と、十日雨が降らねば斬罪を願う旨の上奏を密使で届けた。神宗は図を見て涙し、免行銭・青苗・免役など十八の新法関連措置を停止させた。すると程なく大雨が降り、群臣は神宗の徳を讃えたが、神宗は鄭俠の図のおかげだと明かした。安石は激怒し鄭俠を欺瞞と非難、のち鄭俠は讒言により罪に問われた。
新法の復活と呂惠卿の専横
呂惠卿・鄧綰が涙ながらに新法復活を訴え、神宗は再び新法を許した。太皇太后曹氏も神宗に安石の外調を勧めたが聞き入れられず、諫めに来た昌王顥は神宗に叱責された。結局安石は自ら乞うて江寧府知事に転出し、韓絳・呂惠卿が後任となったが、両名は安石の法度を忠実に守り「伝法沙門」「護法善神」と呼ばれた。呂惠卿は曾布・呂嘉問を退け、弟和卿の献策で「手実法」を作り、民の資産まで課税対象にして苦しめた。鄭俠は唐の忠臣・奸臣になぞらえた意見書を出して呂惠卿を批判したため英州に流され、馮京も左遷、安石の弟安国も連座して免職となった。
安石の復帰と呂惠卿の失脚
呂惠卿は勢いに乗じ、蜀人李士寧の一件で恩人の安石まで陥れようとしたが、韓絳の取り成しで安石が復帰し、同平章事に返り咲いた。御史らの弾劾により呂惠卿は陳州へ、章惇は潮州へ左遷され、韓絳も引責して地方へ出た。
遼との国境交渉
契丹の興宗が没し洪基が即位、国号を遼と改めた。神宗熙寧七年、遼は蕭禧を派遣して山西方面の国境再画定を要求した。宋の劉忱と遼の蕭素が代州境で協議したが、遼側は根拠の乏しい「分水嶺」を境界と強弁し折り合わず、韓琦・富弼・文彦博・曾公亮ら重臣は無用な譲歩を戒める意見を上奏した。神宗は決めかね、沈括を派遣して調査させたところ古地図では宋側に有利な境界が判明したが、結局神宗は「先に与えて後に取る」という安石の助言に従い、分水嶺を境とすることを許し、東西七百里の領土を遼に割譲した。
評語
神宗が新法を止めた途端に大雨が降ったのは偶然かもしれないが、鄭俠の流民図は宋史随一の忠諫と言える。だが神宗の反省は長続きせず、安石・惠卿が交互に進退を繰り返し、ついに遼との国境交渉では安石の助言により七百里もの領土を失った。後世、安石を政治家として称える向きもあるが、著者はその評価に納得できないとする。