宋史演義第三十八回 辺城を棄て撫臣罪に坐す/杭州に徙り名吏閒游す (棄邊城撫臣坐罪 徙杭州名吏閒游)
程顥の諫言と安石の反発
- 程顥は弟頤とともに聖学を修め、晋城令として善政を敷いた後、呂公著の推薦で御史となった。新法の弊害、特に青苗の利息や提挙官の設置について繰り返し諫言し、極めつけの上疏では「天下の理は簡易に基づくべきで、独断や党派化は国政を誤らせる。地震など天変も相次いでおり陛下は天意を省みるべき」と説いた。
- 神宗の命で中書に出向いた程顥は、安石と対峙しても従容として「天下の事は一家の私議ではない、平心に聞くべきで威圧すべきではない」と諭し、安石を一時気恥ずかしくさせた。しかし同僚の張戩が新法批判の上疏を携えて現れると、安石は扇で顔を隠して忍び笑いをし、張戩に「私を笑うのは公ら数人だが、公が笑われるのは天下中だろう」と切り返された。結局、程顥・張戩・王子韶・李常らは相次いで地方に左遷された。
台諫一掃と呂公弼の失脚
- 台諫が一掃されると安石は姻戚の謝景温を侍御史に据え、条例司を中書に統合、呂恵卿に司農寺を兼掌させた。枢密使呂公弼は安石を諫めたが、弾劾草稿を身内の呂嘉問に盗まれて安石に密告され、逆に免官・左遷となった(嘉問は「家賊」と呼ばれても意に介さなかった)。
- 曾公亮も老齢を理由に退き、当時「生老病死苦」という戯れ歌で安石(生)・曾公亮(老)・唐介(死)・富弼(病)・趙抃(苦)を風刺する声が広がった。
王韶の平戎策と河湟経略
- 西方で夏主秉常が環慶路へ侵攻する事態を受け、安石自ら出征を志願するが、韓絳が代わって陝西宣撫使となった。建昌軍司理王韶はかねて「西夏を取るには先に河湟(洮・河・蘭・鄯)を回復し、諸羌をなびかせるべき」との平戎三策を献策しており、神宗・安石はこれを高く評価、王韶を秦鳳経略司に任じた。
- 王韶は青唐蕃部の俞龍珂を降し渭・涇に築城、董氈への懐柔も進める一方、秦鳳経略使李師中は開墾や市易法の実施に反対して罷免された。市易のための交子発行など、王韶の策は次々実行に移された。
熙寧三年の夏との交戦、韓絳・種諤の敗退
- 熙寧三年、夏が鬧訛堡を築くと、知慶州李復圭は功を焦って裨将李信・劉甫を出撃させ大敗、責任を部下に押し付けて処刑し、自ら小勝を得て虚偽の戦果を報告した。夏はこれに怒り環慶州へ大挙侵攻、大順城・柔遠寨を攻め、宋将郭慶・高敏が戦死した。
- 韓絳は延安に幕府を開き種諤を鄜延鈐轄に起用するが、種諤は横山攻略を強行し諸将の反発を招く。羅兀城を築いて拠点化したものの、夏軍の反撃で新築の諸堡が次々陥落、種諤は恐慌のあまり筆も執れぬ有様となり、将士千余人が戦死した。韓絳は責任を負って上書、種諤は潭州へ左遷、韓絳も鄧州へ左遷された。
安石独相と科挙・学制の改革
- 韓絳失脚後、安石は独相となり大権を握る。参政馮京・王珪のうち王珪は安石に迎合し、翰林学士司馬光・范鎮は罷免。新策の科挙合格者呂陶・孔文仲も安石に阻まれ処遇を落とされた。保甲法・免役法が次々施行され、更戍法も改訂されて諸路に将副を新設したが、旧来の官職と重複し、かえって冗員と士気の低下を招いた。
- 科挙制度についても安石は詩賦・帖経・墨義を廃し経義論策中心に改め、太学生三舎法を制定。自著『三経新義』を学官の必修教材とし、旧来の伝注を廃止させるなど、その権勢は膨張の一途をたどった。
蘇軾の上疏と杭州左遷
- 蘇軾は進士試験の策題で暗に安石を風刺したため疎まれ、開封府推官に回された。それでも新法批判の長文を上疏し、「人心をまとめ、風俗を厚くし、綱紀を保つ」ことを説き、条例司の少壮起用や青苗法の将来的な弊害、均輸法の危険性、台諫を重んじるべきことなどを具体的に論じた。
- 安石は激怒し謝景温に蘇軾の罪を探らせるが実らず、蘇軾は自ら通判杭州を願い出て許された。杭州では西湖の景観を楽しみつつ治水にも携わり、後に「蘇堤」と呼ばれる堤を築いた。弟の蘇轍も条例司在任中に安石と対立し左遷されている。
評語
本回は程顥の上疏に始まり蘇軾の上疏に終わる対の構成を取る。宋夏の交戦は王韶の献策を安石が容認し、韓絳が種諤を誤用したことに端を発する。王韶の策自体が無用とは言えないが、無用な開戦の責は宋廷にある。韓絳・種諤は罪を得たが、安石だけは咎めを受けず権力を独占するに至った。神宗が真に愚かだったわけではなく、功名を急ぐあまり安石の術中に陥ったに過ぎない。道学の大家である程顥は言を用いられず退き、文学の大家である蘇軾は言によって忌まれ外任となった。両者の上疏をあえて詳しく載せたのは、その人物を重んじればこそその文を重んじるという著者の筆致による。