宋史演義第三十七回 韓使相、君を諫め弊政を論ず/朱明府、母を尋ね孝思を竭す (韓使相諫君論弊政 朱明府尋母竭孝思)
青苗法の始動と蘇轍の左遷
- 蘇轍は制置三司条例司で青苗法に反対し続けていたが、京東転運使王広淵の献策(民に金を貸して利を取る案)を見た安石は「これぞ青苗法」と喜び、河北・京東・淮南の三路から施行を開始した。蘇轍はなお反対し呂恵卿とも対立、恵卿の讒言により安石の怒りを買うが陳升之の取りなしで河南府推官に左遷される程度で収まった。
- 安石は恵卿を太子中允・崇政殿説書に推薦。司馬光は「恵卿は心術が正しくない」と反対したが容れられなかった。首相富弼は安石重用の流れを見て病を理由に退き、陳升之が同平章事となった。
陳升之・韓絳と提挙官の弊害
- 司馬光は神宗に「二相二参政がいずれも閩・楚出身に偏っており、朋党化の恐れがある」と指摘、安石については「姦邪とまでは言えないが偏執で道理に暗いのが難点」と評したが、神宗は聞き入れなかった。
- 陳升之は入相後、逆に三司条例司の廃止を求めて安石と対立し、韓絳がこれに代わって条例司を制する。韓絳は青苗法の拡大を進言、諸路に提挙官を置いて貸付を推進させたが、現場では貧富を問わず強制的な割り当てが横行し民間が騒然となった。王広淵は成果を誇張して奏上する一方、批判した李常・程顥・劉庠は取り上げられず、安石はむしろ彼らを恨んだ。
- 学者張載は古の三代の政を範とすべきと説き、安石の学とは異なる立場から失望して官を辞した。
張方平の抵抗と韓琦の上疏
- 張方平は服喪を終えて復帰するも安石に疎まれ地方に出され、辞去の際新法の弊害を強く訴えた。熙寧三年、河北安撫使韓琦は青苗法廃止を求める上疏を提出。抑配の実態や返済時の取り立ての苛烈さを具体的に指摘し、常平旧法への回帰を求めた。
神宗の動揺と安石復帰
- 韓琦の上疏に神宗は動揺し、輔臣を集めて協議。曾公亮も「琦は忠臣」と同調したが、安石は激しく反論し「周公の遺法を修めているだけで興利の臣ではない」と主張。神宗はいったん青苗法廃止に傾くが、安石が病と称して出仕を拒み、韓絳らが「孔子や子産でさえ初めは謗られた」と説得したため、結局神宗は安石を慰留し新法続行を決めた。
- 派遣された調査役の宦官張若水・藍元振は安石に買収されており「民情は便としている」と偽りの報告をし、神宗はますます安石を信頼、韓琦の上奏は却下・公開反駁される事態となった。
文彦博・韓琦らの相次ぐ左遷
- 文彦博が青苗の害を訴えても神宗は宦官の報告を盾に取り合わず、韓琦は河北安撫使を辞退。孫覚・呂公著・陳襄(推薦した司馬光・韓維らごと)・趙抃らが相次いで新法批判を理由に左遷され、参政の座は韓絳が引き継いだ。
李定の登用と生母隠匿問題
- 安石の弟子李定は青苗法を「民皆便とする」と証言して神宗に取り入られ、監察御史裏行に破格で抜擢された。宋敏求・蘇頌・李大臨ら知制誥はこの人事に抗議して詔書を封還し、「熙寧三舎人」と呼ばれるほど強く抵抗したが、結局罷免された。
- のちに李定は実母仇氏の喪に服さなかったことを監察御史陳薦に弾劾される。李定は「生母と知らなかった」と釈明するが、実際には隠していたとみられる。安石は師弟の情から李定を庇い、逆に陳薦を免官、批判した林旦・薛昌朝・范柷らも左遷された。
審官院分割と胡宗愈の左遷
- 安石は文彦博の力を削ぐため審官院を文武東西に分割する策を提案、神宗はこれを容れた。文彦博は抗議したが分割は実施され、反対した胡宗愈も左遷された。
朱寿昌の尋母
- 知広徳軍朱寿昌が官を辞して生母探しの旅に出て、ついに同州で再会を果たしたことが京兆守銭明逸から報告される。寿昌は三歳で母劉氏と生き別れ、長じて各地の知県・知州を務めながら生母を探し続け、五十歳を前に決意して辞職、苦難の末に劉氏と再会し、黨氏との間に生まれた異父兄弟とも対面して一族で帰郷した。
- 士大夫たちは寿昌の孝行を称え表彰を求めたが、安石は李定を庇う都合上これを抑え、寿昌は通判河中府に留まった。蘇軾も寿昌を称える詩序を贈ったが、それが暗に李定を批判する内容であったため李定は深く恨み、後の讒言事件の伏線となる。
評語
青苗法自体が行えないものではなく、弊害は立法の不備にある。春に貸して秋に返す際の利息が三割にも及び、望まぬ者にも強制貸付が行われ、青苗のない都市部にまで利息目当ての貸付が及んだのは、名実の乖離した収奪に過ぎない。韓琦の上疏は一度は君心を動かしたが、韓絳ら邪党に再び覆された。安石は自らに従う者はたとえ姦人でも忠と見なし、逆らう者はたとえ忠臣でも姦と見なす偏執ぶりで、不孝の李定すら最後まで庇い立てした。同時代に李定と朱寿昌という対照的な人物が現れたのは、造化の皮肉な巧みさというべきか。本回で韓琦の上奏と朱寿昌の行いを特に詳しく記したのは、忠と孝を勧める著者の意図にほかならない。