宋史演義第三十六回 新法を議し条例司を創設す/疑獄を讞し謀夫の案を狡脱す (議新法創設條例司 讞疑獄狡脫謀夫案)

郊天礼をめぐる司馬光との論争

  • 熙寧元年冬、郊天礼の後の恩賞をどう扱うかで議論が起こる。司馬光は「河朔の旱害と財政難を考え、貴顕から節約すべき」と主張。王安石は「理財がまずいだけで、節流だけでは意味がない」と反論した。
  • 司馬光が「加賦せずに国用を増やすとは何のことか」と問うと、安石は「加賦せずに国用を増やしてこそ理財の上手」と答える。光は「天地の生む財には限りがあり、官が増えれば民が減るだけ。それは桑弘羊が漢武帝を欺いた論と同じだ」と切り返した。
  • 神宗は結局、恩賞を従来通り行うことで決着させ、安石寄りの姿勢を見せた。

富弼の入朝と地震

  • 富弼が汝州から入朝し、神宗は「辺境の遼・夏にどう対処すべきか」と問う。富弼は「即位間もない今は徳恵を先にし、二十年は兵を語らぬように」と諫めた。
  • 熙寧二年、富弼は再び召されて司空兼侍中となる。上京の途中、都で地震が起き神宗は謹慎の姿勢を示したが、安石は「災異は天のことで人事に関わらない」と述べた。富弼は「天を畏れなくなれば何でもできてしまう。姦人が邪説で君心を惑わしているのでは」と危惧し、賢者登用・姦人排斥を説く上書をした。

安石参知政事への抜擢

  • 神宗は富弼を任用しつつも安石への期待を捨てず、参政への抜擢を模索。唐介・孫固は揃って安石の狭量・偏執を指摘し反対したが、神宗は聞き入れず安石を参知政事とした。
  • 拝命の際、安石は「経術こそが世務を治める道であり、自分が世務に疎いという批判は的外れ」と述べ、変風俗・立法度を急務とし、周の泉府の制にならい理財による利権掌握を進言。神宗はこれを了承した。

制置三司条例司の設置と新法八条

  • 安石の建議により制置三司条例司が設けられ、陳升之と共に運営。呂恵卿・曾布・章惇・蘇轍らを掾属に起用し、特に呂恵卿を腹心として重用した。
  • 富国六条(農田水利・均輸・青苗・免役・市易・方田)、強兵二条(保甲・保馬)からなる新法が策定された。

新法への反発と言官の処分

  • 唐介は新法に強く反対し安石と論争、憤懣のあまり病に倒れ死去した。神宗は新法を次々施行し、均輸法では薛向を東南六路の発運使に起用。反対した銭公輔・范純仁らは相次いで左遷され、王拱辰・鄭獬・滕元発も安石に忌まれ更迭された。
  • 御史中丞呂誨は「安石は表向き素朴だが内心は狡猾で、久しく重用すれば天下を誤る」と弾劾する上奏を行うが、神宗は激怒してこれを退け、呂誨は鄧州へ左遷。范純仁も安石の懐柔を拒んで抗弁を続け、河中府へ出された。

呂誨の弾劾と純仁の左遷

  • 范純仁は范仲淹の子で、清廉な家風を継ぎ新法の弊害を諫め続けたため、安石に「僚属監督不行き届き」として和州へ左遷された。

登州婦人殺夫事件

  • 蘇轍は青苗法に慎重論を唱え、安石も一時これを容れて議論を保留した。その間、登州の婦人が醜い夫を嫌い刺殺を図り未遂に終わった事件が持ち上がる。知州許遵は婦人に自首させ減刑扱いにしようとし、安石はこれを支持、司馬光は「謀殺と自首を分けて論じるのは筋が通らない」と反対した。
  • 神宗は安石の意見を採用し、「謀殺已傷、按問自首」を減刑二等とする条文を新たに国法に加えた。侍御史劉述はこれに抗議し封還を繰り返したため安石の怒りを買って左遷、劉琦・銭顗ら同調者も次々処分された。龍図閣学士祖無択も安石と意見が合わず退けられた。

評語

新法そのものが行い得ないわけではなく、安石も行い得ない人物というわけではない。誤りは国情を審らかにせず己の見解に固執し、理財の末節のみを知って本源を知らなかった点にある。鄞県で新法を試み民が便とした成功体験から「天下を治めるに余りある」と自負するに至ったが、一県と天下は同じではない。登州の一件でも同僚の反対を押し切って減刑を通したのは、矯情立異の性癖の表れに過ぎない。朝廷の施策は天下の安危に関わるものであり、私情で押し通してよいものではない。新法の当否を論じる前に、まず安石その人の心根を正すべきであろう。