宋史演義第三十五回 神宗、誤りて王安石を用う/種諤、嵬名山を誘降す (神宗誤用王安石 種諤誘降嵬名山)
王安石の経歴と出仕
- 神宗は朝廷に人材が乏しいと感じ、臨川の王安石を召し出すよう詔を下した。安石は字を介甫といい、若くして博覧強記、文才に優れた。曾鞏の紹介で欧陽脩に才を認められ進士に及第、淮南判官となった。
- 常例の館職試験を求めず、鄞県の知県では堤や陂塘を整備し、民に穀を貸して利息を取る仕組みを試み、成果を上げた。
- その後も文彦博・欧陽脩の推薦をたびたび受けながら、病や祖母の高齢を理由に固辞し続け、逆にそのことで名声が高まっていった。仁宗嘉祐三年にようやく上京し、万言の上書で理財・変法を説いたが、仁宗は本気にせず、以後も官職の授受をめぐって辞退と固辞を繰り返した。
開封府の闘鶉殺人事件
- 京の刑獄を糾察していた安石は、鶉を争って友人を殺した少年の一件を扱う。開封府は殺人として死刑相当と裁いたが、安石は「友人が無断で鶉を持ち去ったのは窃盗に等しく、少年が追って殺したのは罪に問えない」と独自の解釈で異議を唱えた。
- 審刑院・大理寺の再審でも府の裁定が正しいとされたが、安石は非を認めず、弾劾も受け流し、最終的に母の喪を理由に辞職して郷里へ帰った。英宗の代にも召されたが応じなかった。
韓・呂両家との結びつきと召還
- 安石は家柄の弱さを補うため韓絳・韓維兄弟や呂公著と親しく交わった。韓維は潁邸(神宗)の記室として、自らの見識をしばしば「友人王安石の説」と称して披露し、神宗の記憶に安石の名を刻み込んだ。
- 神宗即位後、召しに応じない安石を巡り曾公亮は「欺くような人物ではない」と擁護したが、参知政事の呉奎は「剛愎自用で朝政を乱す恐れがある」と強く反対した。神宗は結局、安石を江寧知府に起用し、曾公亮もこれを後押しした。
曾公亮の思惑と韓琦の退場
- 実は曾公亮が安石を推したのは、韓琦が独断で国事を取り仕切ることへの不満からであった。神宗自身も韓琦の専断に不快感を抱きはじめており、邵元・王陶ら潁邸旧臣も韓琦を中傷した。
- 韓琦は辞意を重ね、神宗は安石を翰林学士に召す一方で韓琦の辞職を認めた。辞去にあたり神宗が後任を問うと、韓琦は「王安石は学問はあるが宰相の器量には欠ける」と評した。ほどなく呉奎も地方に出て病没した。
神宗と安石の治道問答
- 韓琦・呉奎が退いた後、神宗は張方平・趙抃を参知政事、呂公弼を枢密使、韓絳・邵元を枢密副使とした。趙抃は簡素な統治ぶりを神宗に評価され破格の抜擢を受けた。張方平・司馬光は安石の登用に反対したが、神宗の意向は変わらなかった。
- 熙寧改元後、神宗は安石を呼んで治道を問う。安石は「まず堯舜に法るべきで、唐太宗など論じるに足りない」と大言し、神宗はこれに感銘を受けた。別の機会には「陛下が堯舜たり得れば自ずと賢臣は現れる、諸葛亮や魏徴すら物足りない」と述べ、神宗を強く惹きつけた。こうして安石は着実に朝廷の中枢へ進んでいった。
- 当時、蘇洵は密かに『辨姦論』を著して安石を批判し、李師中も早くから「安石はいずれ天下を乱す」と見抜いていたと語られる。
李師中と種諤・綏州の経緯
- 李師中は辺境事情に通じ、鳳翔知府として青澗の守将種諤が綏州を回復したことについて「軽率な開戦だ」と朝廷に慎重を促した。案の定、夏主諒祚は知保安軍楊定らを誘殺し、宋夏は再び緊張状態に陥る。旧相韓琦が陝西を経略してようやく局面を支えた経緯が、ここで遡って語られる。
夏との交渉と英宗の詔
- 夏主諒祚は英宗即位時の非礼をとがめられても服さず、治平三年に秦・鳳・涇原一帯へ侵攻。環慶経略使蔡挺の防戦で撃退されたが、その後も宋の歳幣を巡り緊張が続いた。知延州陸詵の進言で朝廷は詰責し、諒祚は謝罪に転じた。
- 英宗崩御・神宗即位を経て、新たな詔が諒祚に下され、過去の非を諭しつつ和好を保つ姿勢が示された。
種諤による名山誘降と綏州奪還
- 冬、夏の綏州監軍嵬名山の弟夷山が青澗城に投降を申し出た。守将種諤は夷山を通じて名山を招き、金の盂を贈るなどして調略。名山の腹心李文喜が密かに協力し、種諤は密奏の上、知延州陸詵にも通報した。陸詵は真偽を疑い慎重を求めたが、転運使薛向は積極策を支持。
- 神宗に招撫策を伝えた使者張穆之の奏対により、神宗は乗り気となり陸詵を秦鳳へ転出させて種諤・薛向に事を任せた。種諤は朝命を待たず先んじて綏州を囲み、名山を降伏させて三百の首領・一万五千戸・一万の兵を接収、綏州を回復した。
楊定殺害と綏州問題の帰結
- 綏州失陥を知った諒祚に対し、部下の李崇貴・韓道善は「かつて宋使楊定に賄賂を贈ったのに約束を破られ綏州も奪われた」として楊定を会議に誘い出し謀殺、保安を攻略するよう献策。諒祚はこれを容れ、楊定は騙されて殺害された。
- 朝廷は動揺し、種諤を誅して綏州を放棄すべきとの議論が強まったが、神宗は即断せず陝西宣撫使郭逵に現地判断を委ねた。郭逵配下の趙卨は「王官殺害は責めるべきだが、綏州放棄も名山ら降人の処遇も慎重に」と献策した。
韓琦の再登板と秉常冊立
- 韓琦が陝西を経略することになり、「綏州は取るべきでなかったが、今は情勢上手放せない」との論を展開、朝廷を説得した。種諤は隆州へ左遷される一方、楊定殺害の首謀者李崇貴・韓道善は病身の諒祚により郭逵へ引き渡された。
- 間もなく諒祚が病没し、子の秉常が跡を継いだ。神宗は自ら李崇貴を尋問し、楊定の非を認めつつも私的な誘殺は許さず、崇貴らの死刑は特赦し楊定の官爵は剥奪。使者劉航を遣わし秉常を夏国王に冊立した。
評語
上に功名を急ぐ君主がいれば、下には情を偽って異を立てる臣が現れる――神宗と王安石の関係はまさにそれである。神宗が唐太宗を目指せば安石は堯舜を説き、神宗が諸葛亮・魏徴を求めれば安石は自らを臯陶・夔・稷・契になぞらえた。功名に逸る君主がこれに惑わされぬはずがない。呉奎・張方平・蘇洵に加え李師中も安石の危険性を早くから見抜いていた。ただ李師中も大言を好む人物で、綏州の一件では種諤を責めるのみで善後策を語らなかった点は、人に厳しく己に甘い誹りを免れない。結局、韓琦の重鎮ぶりと郭逵の補佐があってようやく夏の一件は収まった。韓魏公の存在の大きさをあらためて思わせる。