宋史演義第三十四回 濮議を争い聚訟廷に盈つ/潁王の長男に伝え主器とす (爭濮議聚訟盈廷 傳潁王長男主器)
濮議の紛糾
- 英宗の実父・濮王允讓の礼をどう定めるかをめぐり、韓琦は尊崇を主張、司馬光は前漢・後漢の先例を引いて追尊に反対した。王珪ら礼官は司馬光案をもとに「実父母を皇伯・皇伯母とし、名を呼ばない」形の議論をまとめたが、歐陽修がこれに反論し、実父の呼称を伯に変えることは礼にかなわないと主張した。
- 廷議は紛糾し、太后から執政の優柔不断を叱責する諭が下る事態にまでなった。結局、太后自らの手勅で「皇帝は濮王夫妻を親と称してよいが、皇・后の号は認めない」との折衷案が示され、英宗もこれを奉じて詔を下し、濮王の廟・園を建てるにとどめて論争は収束した。
- 反対派の呂誨・范純仁・呂大防らは強く抗議し辞職を申し出たが容れられず、かえって地方に左遷された。呂公著も諫言が容れられず外任を願い出た。
英宗親政期の人事
- 文彦博は謙虚に功を辞し、富弼も韓琦との確執(太后撤簾の際に相談がなかったこと等への不満)から辞職を重ね、揚州判官に転出した。張昪も辞して許州判官となった。
- 樞密院の後任には文彦博・呂公弼が起用され、武将・郭逵も抜擢されたが、文官偏重の朝議から武臣登用に反発する弾劾が相次いだ(狄青の先例と重ねての批判)。郭逵は半年で樞密院を追われ、陝西四路宣撫使に転出した。
- 大雨・大火・彗星など災異が続き、英宗は直言を求め、進士登用の試験を拡充した。文治偏重で武将が軽んじられる宋室の風潮が語られる。
英宗の病没と神宗の即位
- 治平三年末、英宗は病が重くなり、韓琦の強い勧めで潁王頊を皇太子に立てることを決断、自ら病身を押して立太子の詔書に太子の名を書き入れた。
- 治平四年、英宗は三十六歳、在位四年で崩御した。倹約・謙虚な人柄で知られ、賢君と評された。
- 皇太子頊が即位し神宗となる。曹后は太皇太后、高后は皇太后となり、韓琦・曾公亮・文彦博・富弼ら重臣の官位が改められた。向氏が皇后に立てられた。
- 御史・蔣之奇が歐陽修を私生活の乱れで弾劾したが、証拠は薄弱な伝聞に基づくもので、追及の末に虚偽と判明し、蔣之奇と彭思永が逆に左遷された。歐陽修は自ら辞意を示し、亳州に転出した。
- 神宗は人材登用に意欲を見せ、ある著名な人物を朝廷に招こうとする(次回に続く)。
評語
- 宋の臣は迂遠な議論を好み、晋代の清談にも似た風があったが、それでも国が乱れなかったのは一、二の大臣がよく主導したからである。英宗は仁宗の後を継いだ以上、実父を皇伯と呼ぶのは筋が通らず、歐陽修が礼経に基づき「親と称しつつ服喪は軽くする」と論じたのは至当であった。韓琦もこれに拠って、親と称する件は行い、皇・后と称する件は辞退する形でまとめ、公私両全の道を得た。呂誨らが意気にはやり、進退や生死を賭してまで争ったのは滑稽というほかない。
- 一方、英宗の病が重くなるまで誰も立太子を進言せず、韓琦の一言でようやく大事が定まった。濮議は末節でありながら激しく争われ、立儲という根本は等閑にされていた。宋の臣が本を捨て末を追う様はまさにこの通りであり、韓琦らがいなければ宋室は早くに乱れていたであろう。世論と清談は、いずれも国を乱す点で異ならない。