宋史演義第三十三回 儲弐を立て大統を承け入る/嫌疑を釈き簾を撤するを准許す (立儲貳入承大統 釋嫌疑准請撤簾)
包拯、立太子を諫言し、その最期
- 御史中丞となった包拯は改めて立太子を強く諫言し、仁宗を動かした。包拯自身は嫡子・繶を亡くし、崔氏の嫁が守節する一方、実は側室が生んだ子(綖)を密かに育てていた。晩年病に臥した際にその子を呼び戻し、「清廉の家風を守れ、汚職すれば我が子孫にあらず」と遺言して没した。
後継問題の紛糾と英宗の即位
- 張貴妃の没後に召し戻された楊美人はじめ、多くの妃嬪も男子を得られず、「十閤」と呼ばれる後宮の女性たちの驕りも問題視されて整理された。
- 韓琦が宰相となり立太子を強く求め続け、司馬光・呂誨らの上奏も相まって、仁宗はついに宗実(後の英宗)を後継に定めた。宗実は父の喪に服していたことや固辞を繰り返したが、周孟陽の説得や司馬光の諫言もあり、最終的に入宮して曙と名を賜り皇子となった。
- 嘉祐八年、仁宗が崩御(在位四十二年、五十四歳)。遺詔により皇子曙が即位し英宗となった。曹皇后は太皇太后(太后)として一時政務を後見した。
曹太后と英宗、内侍の讒言による確執
- 即位当初、英宗は病のため情緒が乱れ、内侍への暴力沙汰もあり、内都知・任守忠がこれに乗じて曹太后と英宗の間を讒言で離間しようとした。
- 韓琦・歐陽修が太后に働きかけ、母子の情理を説いて誤解を解かせ、英宗自身も太后への孝を尽くすようになり、両者の和解が成った。
- 韓琦は太后の撤簾(親政移譲)を段階的に進め、英宗に政務を裁決させて実績を積ませたうえで、太后自らに撤簾を申し出させる形で円満に政権を英宗に戻させた。
- 司馬光の弾劾を受け、韓琦は任守忠を蘄州へ左遷し、その一派も一掃した。
蔡襄の左遷
- 三司使・蔡襄は、太后聴政時の一件をめぐる猜疑から英宗の不興を買い、杭州に左遷された。蔡襄は本来吏治の才に優れ、泉州で万安橋(洛陽橋)を築くなど善政で知られた人物であったが、諧謔を好む性分が仇となったとされる。まもなく丁憂で帰郷し、まもなく没した。
- 英宗は続いて濮王(実父・允譲)の礼をどう定めるかで朝議が紛糾することになる。
評語
- 英宗の即位、曹太后の聴政と撤簾は、いずれも韓琦一人の尽力によるところが大きい。歐陽修・曾公亮・張昪・王珪・司馬光らもその働きに支えられて名を上げたのであり、曹太后の賢明さや英宗の孝敬もまた韓琦の助けがあって初めて成った。歐陽修が「声色を動かさず天下を泰山の安きに置いた」と評したのは決して過褒ではない。真宗の呂端、仁宗の王曾に劣らぬ、否それ以上の名宰相であったといえる。賢相と国家の関わりの深さは、まさにここに表れている。