宋史演義第三十二回 狄青、夜、崑崙関を奪う/包拯、出でて開封府を知る (狄青夜奪崑崙關  包拯出知開封府)

宰相の交代と狄青の抜擢

  • 文彦博の後、宋庠(弟の宋祁と並ぶ才人だが、子弟の不行跡を咎められ罷免)を経て、龐籍・高若訥・梁適・狄青が要職に就いた。
  • 狄青は元は戍卒から身を起こし、尹洙・韓琦・范仲淹に見出された勇将。范仲淹の勧めで学問を修め、累進して都指揮使となった。仁宗が顔の入れ墨(面涅)を消すよう勧めた際も、狄青は将士の励みとしてあえて残すと辞退した。

儂智高の乱と狄青の南征

  • 広源州の蛮酋・儂智高が交趾との確執の末に叛き、南天国を僭称して広南諸州を席巻、邕州を陥落させて仁恵皇帝を自称した。宋の官軍は各地で敗れ、余靖・楊畋らを派遣するも劣勢が続いた。
  • 狄青が自ら南討を願い出て宣撫使に任じられる。交趾の援軍申し出も、蛮夷を頼れば後患を招くとして狄青が退けさせた。
  • 陳曙が命令違反で崑崙関に出撃して敗れると、狄青は軍紀粛正のため陳曙および逃走した将校三十二名を軍法により処刑し、諸軍を震え上がらせた。
  • 元宵節の宴と称して諸将を酔わせつつ、自らは密かに軍装を変えて崑崙関を夜襲、先んじて要衝を確保した。翌朝到着した諸軍と共に儂智高の軍を歸仁鋪で撃破し、追撃して数千を討ち取った。
  • 邕州を陥落させ、龍衣の死体を儂智高本人と決めつけようとした部下を狄青は退け、慎重に事実を報告した。仁宗はこれを喜び、狄青を樞密使に、孫沔を副使に抜擢。儂智高自身は大理に逃れて後に死に、首級が献じられた。楊延昭の子・楊文広も従軍の功で広西鈐轄に任じられた。

狄青の晩年と包拯の登場

  • 樞密使となった狄青は謹厳に務めたが、士卒に慕われる姿や怪しい噂が都で取り沙汰され、歐陽修らの進言で外任に転じさせられ、まもなく病没した。
  • 至和年間、寵妃・張貴妃が没すると仁宗は深く哀悼し、皇后待遇で厚葬・追封するなど寵愛が過ぎたため、孫沔が職掌の逸脱を理由に読冊の役を固辞するなど朝議を騒がせた。范仲淹はこの頃青州で病没(清廉な生涯と善政が語られる)、文彦博・富弼も外任のまま在職した。
  • 陳執中の罷免後、王素の推挙により富弼・文彦博が宰相に起用された。
  • 仁宗が眩暈で倒れる事態が続き、立太子(建儲)が繰り返し求められたが実現しないまま、包拯が開封府知事に転出させられた。
  • 包拯は孝行と清廉で知られ、牛の舌を切った盗人を逆手に取って自白させた逸話や、豪強を挫き冤罪を晴らす公正な裁きで名を馳せ、「関節到らず、閻羅包老あり」と京師で謳われた。

評語

  • 狄青と包拯はいずれも今に語り継がれる名臣だが、俗説では狄青の栄達を包拯の助力によるものとする荒唐無稽な話が広まっている。実際には狄青の功績は崑崙関奪取に、包拯の功績は開封府知事としての善政にそれぞれ極まる。二人の事跡を的確に描き、当時の朝政の得失もそこに織り込んだ本書は、根も葉もない俗説とは月とすっぽんの違いがある。