宋史演義第三十一回 明副使、力もて叛徒を破る/曹皇后、智もて逆賊を平ぐ (明副使力破叛徒 曹皇后智平逆賊)
契丹と西夏の戦い、宋の冊封
- 契丹は旧属の党項部を元昊に奪われたことを理由に、宗真自ら十万騎を率いて西夏を攻めると宋に通告した。仁宗は元昊冊封を一時保留し、余靖を契丹へ送って情勢を探らせた。
- 契丹軍は緒戦で元昊を破ったが、元昊は退却しつつ焦土戦術を敷いて契丹軍を疲弊させ、夜襲で蕭惠の陣を潰走させて逆転、駙馬・蕭胡睹を捕らえながらも厚遇して和議を持ちかけ、結局契丹と講和した。
- 余靖の報告を受け、仁宗は張子奭を冊礼使として元昊を夏国主に冊封し、宋と西夏の関係は表向き落ち着いた。
元昊の乱倫と横死
- 元昊は没蔵氏を寵愛する一方、太子・寧寧哥(野利氏の子)の妃に迎えた没氏の娘にまで手を出し、野利氏母子の恨みを買った。野利氏は没蔵氏の髪を剃らせて追放し尼にしたが、没蔵氏は兄の訛龐に匿われ、身ごもっていた子(後の寧令哥)を産んだ。
- 恨みを募らせた太子・寧寧哥は狩りの際に元昊を剣で襲い、鼻を削ぎ落として逃走。元昊は激痛の中、訛龐に命じて没蔵氏母子を呼び戻して寧令哥を太子に立て直させ、寧寧哥は訛龐に討たれた。元昊自身も傷がもとで間もなく没した(四十六歳)。
- 訛龐は幼い寧令哥(諒祚)を夏主に立て、没蔵氏を太后とし、野利氏を宮外に幽閉、実権は訛龐が握った。宋はこれに弔問使と冊封使を送った(慶暦八年)。
貝州の乱
- 同年、貝州で妖言を弄する王則が反乱を起こし、東平王を僭称して独自の国号・元号を立てた。宣撫使・文彦博、副使・明鎬が鎮圧に当たり、内応者の手引きで地道(坑道)を掘って城内に潜入、火牛の計を打ち破って王則を生け捕りにした。
- 王則は京師に檻送され磔刑に処された。文彦博・明鎬は昇進したが、実際に功のなかった賈昌朝まで恩州(旧貝州)の名で安国公に封じられ、諫官・楊偕が不満を述べたものの取り上げられなかった。
- この背景には、呂夷簡の死後に台頭した夏竦・賈昌朝らが杜衍・韓琦・范仲淹・富弼ら賢臣を朋党として排斥し、仁宗も次第にこれに惑わされて賢臣を次々に外任へ追いやっていた経緯があった。
宮中の反乱と曹皇后の機転
- 閏正月で元宵節が二度あったこの年、仁宗が灯火の祝いを重ねようとしたのを曹皇后が諫めて中止させた。その数日後の夜、宮中で兵の乱入と思しき物音が起こり、仁宗が飛び出そうとするのを曹后が制止。都知・王守忠を呼びに行かせる一方、宦侍を集めて隊列を組ませ、髪を切って恩賞を約して士気を鼓舞し、賊が門を焼こうとすると用意させた水で消火させるなど、冷静に指揮を執って乱を鎮めた。
- 王守忠の兵が到着して賊数十名(頭目は衛士・顔秀)を捕らえると、曹后は無用な連座を戒め、速やかに処刑するよう命じた。仁宗は曹后の沈着な対応に感嘆した。
- 事後、寵妃・張美人ら妃嬪が伺候する場面が描かれ、張美人の得寵ぶりが語られる。
張貴妃をめぐる朝議の紛糾
- 樞密使・夏竦は張美人に取り入り、乱の鎮圧を彼女の功と奏上させて貴妃に進めさせ、さらに諫官・王贄に「乱は宮中から起きた」と曹后を疑わせる奏上をさせたが、御史・何郯が曹后の潔白を弁護し事なきを得た。
- 張貴妃の伯父・堯佐の異例の昇進に対し、唐介・包拯・呉奎らが強く反対し、いったんは撤回させた。唐介はさらに宰相・文彦博が外戚と結んでいると弾劾したが、仁宗の怒りを買って左遷され、文彦博も出知許州となった(張貴妃が献じたとされる燈籠錦をめぐる噂も語られるが真偽は不明とする)。
- 文彦博の失脚と夏竦の死により、宰相の人事は再び動くことになる。
評語
- 仁宗の統治は聡明さを欠かぬものの、優柔さに流れた。元昊の跋扈は言うに及ばず、貝州の王則ごとき小賊にも大臣を動員する騒ぎとなり、鎮圧後の論功でも功なき賈昌朝まで賞せられる杜撰さがあった。
- 宮中の変事では曹皇后が独力で対処したにもかかわらず、仁宗はなすところがなく、事後には夏竦の讒言でその功を張美人に付け替えようとし、王贄の虚偽の奏上で曹后まで疑われかけた。これらはひとえに仁宗の優柔不断によるものであり、それゆえ賢人は長く用いられず、夏竦のような佞臣がつけ入る隙を与えた。仁宗の「仁」は明君の仁ではなく、婦人の仁というべきである。