宋史演義和約を争い契丹を折服す/敵臣を除き元昊を収降す(第三 十回 爭和約折服契丹  除敵臣收降元昊)

富弼、契丹との増幣交渉に赴く

  • 契丹が幽・薊に兵を集め南下の構えを見せたため、朝廷では洛陽築城の議も出たが、呂夷簡の献策で大名府を北京とし、王徳用を定州に置いて軍容を整えさせた。契丹の偵察も宋軍の精強ぶりに気圧され、契丹主・宗真も勢いを削がれた。
  • 富弼が契丹に赴き、宗真から関南の地の割譲を求められる。富弼は澶淵の盟以来の友好の経緯や、開戦が契丹の群臣を利するだけで君主には損であることを説き、宗真を納得させた。
  • 契丹の劉六符との交渉でも、富弼は土地を渡さぬ姿勢を貫き、婚姻による懐柔にも歳幣の方が実利があると退けた。
  • 帰国後、樞密の書状が口頭の指示と食い違っていることに気づいた富弼は引き返して仁宗に直訴し、晏殊に書き改めさせた(呂夷簡が私怨で富弼を陥れようとした疑いが残る)。
  • 再度契丹に赴いた富弼は、歳幣を「献」「納」と呼ばせようとする宗真の要求にも強く抵抗したが、最終的に朝廷は晏殊の意見で「納」の字を認め、銀・絹各十万を増額して和議が成立した。
  • 富弼は使命に没頭し、子の死や誕生の知らせにも取り合わず、家書も読まず処分するほど公務に徹した。功に対する昇進も固辞し続けた。

元昊の窮迫と種世衡の反間計

  • 西夏は旱魃で疲弊し元昊も帰順の気配を見せたが、宋への偽装投降や葛懐敏軍の壊滅など一進一退が続き、范仲淹らの奮戦でようやく夏兵を退けた。
  • 范仲淹は韓琦との涇州駐屯・分担統治を上奏し、仁宗はこれを容れて韓琦・范仲淹・龐籍を陝西の経略に任じた。両者の威名は西方の羌族にまで轟いた。
  • 種世衡は、元昊の重臣で野利氏出身の剛浪陵・遇乞兄弟に対し、王嵩を使者として離間の書を送る計略を仕掛けた。剛浪陵は策を見破って王嵩を元昊に突き出したが、王嵩は機知で言い抜け、かえって元昊に兄弟への疑心を植え付けた。
  • 元昊は剛浪陵を斬り、遇乞も処刑した。実は遇乞の妻・没蔵氏に元昊が横恋慕しており、離間策を口実に彼女を宮中に囲い込む狙いもあった。

元昊、宋と講和し臣従を誓う

  • 元昊は王嵩を厚遇して解放し、種世衡を通じて宋との講和を申し入れた。当初は文面が尊大であったが、龐籍とのやり取りを経て、元昊は「男邦泥定国兀卒曩霄」の称号を改め臣従の形式を整えることになった。
  • 使者・賀従勗との交渉、続いて邵良佐ら四名の派遣を経て、歳賜(絹十万匹・茶三万斤)で合意し、慶暦四年、元昊はついに臣を称する誓表を上呈した。仁宗も答詔を賜り、和議は正式に成立した。
  • しかし冊封使派遣の直前、契丹が使者を送り「夏討伐に加勢するので宋は夏と講和するな」と申し入れてきたため、宋廷は再び動揺した。

評語

  • 契丹・西夏いずれとの和議も、宋室が安逸を貪り振るわぬ姿を物語る。契丹の宗真には蕭太后や耶律休哥ほどの器量はなく、富弼が一度理を尽くせば容易に相手の勢いを挫けたはずなのに、なお歳幣を増し「献納」の字にまで譲歩したのは腑甲斐ない。
  • 元昊も種世衡の計に嵌まって自ら股肱を失い、さらに没蔵氏の色香に溺れて次第に驕り怠り始めており、和を願い戦を望まぬ本音が見える。韓琦・范仲淹・龐籍の守りが盤石であった以上、むしろ夏に朝貢させるべきところを、逆に絹茶を賜ったのは筋が通らない。総じて宋室の衰勢が既にここに萌していたことがうかがえる。