宋史演義第二十七回 劉太后、極楽に天に帰す/郭正宮、争いに因り位を失う (劉太后極樂歸天  郭正宮因爭失位)

曹利用の失脚と自尽

天聖年間、張知白・魯宗道ら老臣が相次いで没した。曹利用の甥・曹汭が酔って皇帝を僭称する事件を起こすと、内侍羅崇勛の讒言もあり利用も連座を疑われた。張士遜・王曾は利用の無関係を弁護したが、太后は聞き入れず利用を降格・左遷。護送の途中、羅崇勛の一味に辱められた利用は自尽した。呂夷簡が同平章事となった。

玉清昭応宮の焼失と王曾の左遷

天聖七年、落雷により玉清昭応宮がほぼ全焼した。太后は嘆いたが、范雍・王曙らは天意として再建に反対、詔で修復は見送られた。この一件で首相の王曾は「燮理の功なし」として青州へ左遷された。

太后への還政要求と呂夷簡の諫言

范仲淹・宋綬らが太后の還政を求めたが、いずれも左遷された。仁宗の生母・李宸妃が没した際、太后が略式の葬儀で済まそうとしたのを呂夷簡が諫め、皇后の礼に準じた厚い殮葬(水銀を棺に満たすなど)を実現させた。

劉太后の崩御

太后は天子の袞冕を着けて太廟を祭るなど僭越な振る舞いをしたが、まもなく発病し65歳で崩御。在位(臨朝)11年、章献明肅の諡を賜った。晩年は宦官の羅崇勛・江徳明が権を弄したが、太后自身は程琳の武后臨朝図を退けるなど、簒奪の意図はなかったとされる。

出生の秘密の露見

太后の遺言でいったん楊太妃が皇太后とされかけたが、八大王元儼が仁宗に対し、実母は李宸妃であり劉太后・楊太妃は養育者に過ぎないと明かした。仁宗は号泣し、呂夷簡も事実を認めた。李宸妃は章懿太后と追尊され、仁宗は洪福寺で棺を改めて生母の遺骸が皇后なみに丁重に扱われていたことを確認し、劉氏への疑いを解いた。宋綬・范仲淹は召還され、羅崇勛・江徳明は放逐された。

呂夷簡の八議と郭皇后の廃立

呂夷簡は朝綱粛正など八箇条を仁宗に上奏して信任を得たが、まもなく郭皇后(もと劉太后が擁立)の「夷簡も太后に取り入っていた」との一言が仁宗に伝わり、夷簡は一時罷免され李迪が入相した。しかし劉渙の弁護で夷簡は復権。宮中で郭后が寵姫・尚美人と諍いになり、仲裁に入った仁宗の首を誤って傷つけてしまう。これを機に呂夷簡は仁宗に廃后を進言、漢の光武帝の故事を引いて正当化した。孔道輔・范仲淹ら諫官が反対したが聞き入れられず、郭后は淨妃として長寧宮に退けられ、道輔らも左遷された。(詩:嫡庶の争いが宮廷の禍を招いたことを嘆く内容)

評語

劉太后は功も過もあるが、垂簾聴政や天子の袞冕着用など宋の祖制にない振る舞いを行ったにもかかわらず「賢后」と称されるのは過大評価との見方もできる。一方、八大王元儼が仁宗に生母の真実を告げた一件は特筆に値する。郭后の廃立は后自身の落ち度もあるが、仁宗が二美人を寵愛して並立させたことにも一因があり、呂夷簡が私怨から廃后に加担した経緯を含め、史書が夷簡を賢相と評するのは過褒である。