宋史演義第二十六回 王沂公、奸を劾し首悪を除く/魯参政、輦を挽き忠言を進む (王沂公劾奸除首惡 魯參政挽輦進忠言)
丁謂と李迪の対立
丁謂は専権を振るい、李迪と激しく対立した。李迪は丁謂が林特・銭惟演と結び、曹利用・馮拯とも党を組んでいると弾劾したが、真宗の怒りを買って自身が鄆州へ左遷され、丁謂は一旦河南府へ出されるも、真宗に取り入って宰相の座に復帰した。詔の書き換えを拒んだ翰林学士劉筠も外任を願い出た。
太子監国と王曾の腹案
真宗は軍国の大事以外を皇太子と宰相らの議に委ねる詔を出した。太子はまだ幼く、これは劉后・丁謂の権勢を強めるものだった。王曾は密かに銭惟演に対し、劉后は太子を安んじることで自らも安泰になると説き、劉后の信を得た。
真宗の崩御
天禧五年、乾興と改元。真宗は病篤くなり、劉后に「寇準・李迪に大事を託せ」と遺言し崩御した。在位26年、55歳。
劉后臨朝と垂簾の議
劉后・丁謂・王曾らが遺詔を起草する際、王曾は「皇后処分軍国重事」の文言に「権」の一字を加えることを主張し、丁謂の反対を退けた。仁宗(太子禎)が即位し、劉后は皇太后となった。垂簾聴政の形式をめぐり、王曾は太后が帝の傍らに座す東漢の故事を主張したが、丁謂は密かに宦官雷允恭を通じて太后の勅を得て自らの案を通した。
寇準・李迪の左遷
丁謂は劉后の意を迎え、寇準・李迪を朋党として弾劾し、準を雷州司戸参軍、李迪を衡州団練副使に貶した。詔文には準を貶める過激な文言が加えられ、都では丁謂を非難する俚謡が流行した。準は道州から雷州へ護送される道中も泰然としていた。
雷允恭の陵墓改築事件と丁謂の失脚
真宗陵の造営中、雷允恭は司天監邢中和と謀って陵穴を移すことを太后に無断で進言、丁謂も黙認した。改築の穴から石や湧水が出て工事は頓挫。王曾が実地検分に赴き、丁謂が允恭と結託して陵を危地に置いたと太后に密奏した。激怒した太后は允恭を処刑させ、丁謂も太子少保に格下げ、西京へ左遷。王曾が同平章事、呂夷簡・魯宗道が参知政事、銭惟演が樞密使に就いた。
丁謂の女巫事件と最終的な断罪
丁謂の家では女巫の劉徳妙が老君の託宣と称して禍福を説き、丁謂の子・玘と密通していた。徳妙は雷允恭を通じて宮中に出入りし太后の信を得ていたが、丁謂失脚後に発覚し、丁謂はさらに崖州司戸参軍へ落とされ、玘も除名された。
寇準の最期
崖州へ向かう丁謂に対し、寇準は蒸羊を贈るなど旧交を示し、家僮の報復も許さなかった。準自身は翌年、衡州への転任途上で病没。太宗下賜の通天犀帯を身につけ、北面再拝して逝った。没後11年に忠愍の諡を賜った。丁謂も崖州・雷州・道州と流転の末、秘書監として致仕し光州で病没した。
天聖改元と魯宗道の直言
乾興元年、真宗は永定陵に葬られ、翌年天聖と改元。銭惟演・馮拯は退けられ、王欽若が再び宰相となるも実績なく病没した。仁宗は欽若を奸邪と評した。参知政事の魯宗道は、太后の武后への言及に対し武后を「唐室の罪人」と断じ、劉氏を七廟に立てる議も退け、太后の輦にも異議を唱えるなど剛直に振る舞い、「魚頭参政」と称された。(詩:趙氏の天下を守り強きをくじいて弱きを助けた魯宗道の剛直を讃える内容)
評語
劉太后の垂簾聴政は丁謂・雷允恭の力によるところが大きく、王曾が正色を保たなければ宮廷の禍は避けられなかっただろう。王曾が「権」の一字にこだわったのも、正面から争えば退けられるだけであった当時の情勢を見極めた通変の知恵であり、丁謂・雷允恭の末路がそれを証明している。寇準が丁謂の宿泊の縁を理由に多くを争わなかったのも同様の処世である。賊臣が去った後、呂夷簡・魯宗道らが登用され、劉太后も諫言を容れる度量を示したが、その功は多く王曾に帰すべきである。