宋史演義第二十五回 遺恨を留め王旦病んで終う/株連に坐し寇準貶を遭う (留遺恨王旦病終 坐株連寇準遭貶)
劉妃の立后
真宗が劉妃を皇后に立てようとすると、翰林学士の李迪や参知政事の趙安仁が出自を理由に反対したが、真宗は聞き入れず劉氏を皇后に冊立した。楊億は詔の起草を命じられ、富貴を餌に持ちかけられても固辞し、他の学士に代筆させた。劉后は聡明で政務にも通じ、真宗の裁可を傍らで見て記憶し、次第に外政に口を出すようになった。
玉清昭応宮の造営と諫言
真宗は道教に傾倒し、老子を太上老君に加号し、応天府を南京と改めるなど鋪張を重ねた。丁謂が監督する玉清昭応宮の造営は工期を大幅に短縮して強行され、莫大な国費を費やした。張詠は丁謂を斬るべきと激しく上疏したが容れられず、まもなく病没。呂蒙正・張斉賢ら老臣も相次いで世を去った。王旦は病がちになりながらも辞職を許されず、道理に合わぬ真宗の行いを黙認せざるを得なかった。
李沆の遺言と寇準召還
先の宰相李沆は、若い君主に世情の労苦を知らしめる意義を説き、自分の死後に真宗が奢侈に走ることを予見していた。旦はその慧眼に感じ入り、密かに寇準の召還を真宗に進言した。準は樞密使に起用されたが、三司使の林特らと対立し、真宗の怒りを買って地方に出された。
王曾の硬骨
天禧改元の儀礼が続くなか、王曾は状元及第の誉れよりも志を語り、会霊観使兼職を辞退するなど筋を通した。王旦はその人物を高く評価した。
王旦の死
病篤い王旦は真宗に召され、皇太子への忠誠を誓いつつ、後任には寇準を推挙した。真宗は準の性格の激しさを危ぶんだが、旦は「準は主君に隠し立てせぬ正直者」と重ねて推した。旦はまもなく没し、遺言で子弟の任官運動を戒め、簡素な葬儀を望んだ。三槐堂の故事にちなみ、宰相に至った生涯を全うした。
王欽若の復相と妖言騒動
王欽若は樞密副使馬知節との確執の末に一時罷免されたが、旦の死後に再び宰相となった。折しも西京・汴京で怪異の噂が広まり民心を騒がせたが、王曾の統制で沈静化した。皇子受益は禎と改名され皇太子に立てられた。
寇準の再相と丁謂の恨み
永興軍で偽の天書事件が起こると、寇準はこれを真宗に奏上して信任を回復し、王欽若に代わって宰相に復帰、丁謂を参知政事に用いた。ある宴席で丁謂が準の鬚についた汁を拭った際、準がからかう発言をして丁謂に恥をかかせ、これが丁謂の深い恨みを買った。
太子監国をめぐる密謀
真宗が中風を患うと、寇準は太子への譲位準備を進言し、丁謂・銭惟演を退けるよう奏上した。しかし密かに進めた計画が漏れ、丁謂は劉后に讒言。劉后は独断で詔を発し、準を罷免して太子太傅に格下げ、丁謂・李迪を宰相とした。
周懐政の変と準の連座
宦官周懐政は真宗の譲位計画を準に持ちかけたが、準は危険を悟って強く制止した。まもなく懐政の陰謀が発覚し処刑されるが、準は一人罪を認めた懐政のおかげで連座を免れた。しかし丁謂と劉后は改めて準を追及し、偽天書事件への関与を口実に準を太常卿・相州知事に左遷、さらに道州司馬に落とした。真宗は後にこれが劉后の専断であったと知り嘆息するのみだった。
評語
本回は王旦・寇準の合伝である。旦は和を保つあまり流されがちであり、準は剛直さゆえに融通が利かず、いずれも進退に一喜一憂した点は免れない。旦が世俗に流されたのも、準が屡々進退を繰り返したのも根は同じである。臣たる者は道をもって君に仕え、それが叶わなければ退くべきであり、二人ともその心構えがあれば、和も剛もそれぞれ全うできたはずである。それゆえ事後の後悔(旦の遺言)や迎合(準の度重なる左遷)に至ったのは惜しまれる。登場する他の人物の賢愚もまた本回の彩りであり、単なる小説として片付けられぬ教訓を含む。