宋史演義第二十四回 孫待制、空言もて西幸を阻む/劉美人、寵を徼め中宮を継ぐ (孫待制空言阻西幸 劉美人徼寵繼中宮)

泰山への天書再降と封禅の実行

王欽若は泰山でさらに天書の降臨を報告し、木工の董祚が黄帛を発見したと奏上した。真宗は再び夢に神人が現れたと群臣に語り、王旦以下は拝賀した。天書は含芳園に迎えられ、陳堯叟が読み上げると、孝行と国祚長久を説く文言であった。百官は真宗に「崇文広武儀天尊道宝応章感聖明仁孝皇帝」の尊号を奉り、玉清昭応宮の建立が命じられた。王曾らの諫言は聞き入れられなかった。

孟冬、真宗は天書を奉じて泰山へ赴き、封禅の儀を行った。王欽若は芝草三万八千余本を献上して出迎え、真宗は徒歩で険路を登り、昊天上帝を祀り太祖・太宗を配した。禅祭を社首山で行うと、王欽若らは彩霞・黄雲・瑞靄・紫気など数々の瑞祥を報告し、真宗は百官の朝賀を受けて大赦を行った。曲阜では孔子廟を拝謁し、孔子に「玄聖文宣王」の諡を追贈した。

帰途、王欽若ら側近は連日符瑞を奏上し功徳を称え、真宗は自らを五帝三王に比するほど自惚れた。丁謂も封禅の瑞祥図を掲げ、西嶽の封禅も議されたが、各地の水害・旱魃・火災が相次いだため一時中止となった。

汾陰祭祀への反対と孫奭の諫言

翌年、群臣は汾陰での后土祭祀を求め、真宗は西幸を決めた。しかし旱魃で穀価が高騰する中、龍図閣待制の孫奭は長文の上疏で十の不可を挙げて強く反対した。要旨は、先王の慎重な卜占の慣例に反すること、既に東封を行った後に西祀を重ねる非合理、汾陰后土の祭祀が制度上の根拠を欠くこと、京師を離れて険路を経る危険、唐の故事に倣う虚名への傾倒、水旱の災異への無反省、季節外れの雷鳴という凶兆の看過、民を苦しめてまで神を祀る本末転倒、漢武帝・唐明皇の外征に倣う虚栄、そして安禄山の乱に至った唐明皇の失政を戒めとすべきこと、であった。孫奭はさらに、外患・盗賊・国内の疲弊を警告する第二の上疏も奉った。真宗は孫奭の忠誠を認めつつも、虚栄の念を捨てきれず、両疏を握りつぶした。

汾陰行幸と隠士たち

真宗は天書を奉じて西幸し、寶鼎県(汾陰)で后土を祀った。隠士の李瀆・魏野は召しに応じず、劉巽・鄭隱・李寧は謁見したが官職を固辞して山に帰った。かつて徴されて出仕した種放は東封西祀に随行し世の批判を浴びたが、李瀆・魏野は終生仕えず高節で知られた。杭州の隠士林逋も生涯仕えず西湖に隠棲し、臨終の詩に「幸い封禅の書を献じたことがない」と詠み世に称えられた。

王欽若ら「五鬼」の専横と聖祖伝説

五嶽の祭祀が終わると、王欽若は枢密使、丁謂は参知政事、林特は三司使に任じられ、陳彭年(「九尾狐」と綽名される)や内侍劉承珪と結託して符瑞を捏造し続け、世に「五鬼」と呼ばれた。劉承珪は道士王捷が道人から丹術と神剣を授かったと奏上し、真宗はこれに乗じて自らも夢に「聖祖趙玄朗」なる始祖神が現れ天書を授けたという話を語った。群臣は誰も反駁できず拝賀し、聖祖の諱を避けて文字を改める詔まで出された。聖祖・聖母に尊号を奉り、景霊宮太極観を建立、玉皇・聖祖・太祖・太宗の像を鋳造して玉清昭応宮に迎えるなど、国を挙げての祭祀事業が続いた。王旦はこの茶番を内心可笑しく思いながらも帝命に逆らえず従い続けた。

郭皇后の死と劉美人の台頭

真宗の皇后郭氏は倹約を旨とし、外戚の請託にも応じない人柄で敬愛されていたが、景徳四年、西京行幸の途中で病を得て崩じた。宮中で寵愛を集めたのは劉徳妃と楊淑妃で、劉氏はもと蜀人龔美に伴われ上京した銀細工職人の縁者で、鼗(小鼓)を巧みに鳴らす芸で評判となった。まだ太子であった真宗が微行でこれを見初め、侍女として召し入れたが、乳母の秦国夫人の告げ口により太宗に叱責され、一時張耆の家に匿われた。真宗の即位後、劉氏は宮中に召し戻されて美人に封じられ、寵愛はいっそう深まった。郭皇后・楊氏とも円満に接し、宮中で評判となり、兄がいないことから龔美を劉姓に改めさせて外戚とした。

郭皇后の子は三人とも早世し、楊氏の子らも夭折した。真宗は跡継ぎを望み、名門の沈氏を才人に迎えたが、劉氏はなお皇子を望みつつ授からず、侍女の李氏に真宗の寝所を取り持たせる策を用いた。李氏は真宗の子を身ごもり、玉釵が落ちても割れなかったことを吉兆として真宗が喜び、まもなく男子(受益、後の仁宗)が生まれた。劉氏はこの子を自分の子として周囲に伝え、真宗に立后を願い出た。真宗はこれを容れ劉氏を徳妃に冊立し、群臣に立后の意を告げたが、そこに一人の臣が進み出て「なりません」と諫言した。

その人物が誰であるかは次回に語られる。

評語

東封西祀はまったくの茶番であり、無益なだけでなく民力と財政を著しく損なった。孫奭の二度の上疏こそ最も的を射たものであったが、真宗はその忠誠を知りながらも聞き入れなかった。これは理と欲がせめぎ合う中で私欲に負けたためである。劉美人が色をもって寵を得たことも同様に私欲の産物といえる。しかし劉氏には呂后や武后のような才はあっても、彼女らのような悪はなかった。郭皇后には謹み、楊妃とは和を保ち、侍女の産んだ子を自分の子として偽ったことは詭計には違いないが、真宗を欺きはしても李氏を害することはなかった。ただ后位を得るための狡猾さがあったにすぎず、悪とまでは言えない。後世、根も葉もない「狸猫換太子」の俗説が生まれ郭槐に罪を着せ包拯の功に帰す話が広まったが、これらは荒唐無稽な作り話にすぎない。本書は褒めるべきは褒め、貶すべきは貶し、正史に恥じない記述を旨とするものであり、俗小説の荒唐無稽さとは雲泥の差がある。