宋史演義第二十二回 番部を収め叛王計に中る/忠諫を納れ御駕親征す (收番部叛王中計 納忠諫御駕親征)
王均の最期と益州の平定
雷有終は楊懐忠を追撃に遣わした。王均は富順監に逃げ込み蛮族の酋長を招いて酒宴を開き泥酔していたところ、官軍の追撃に絶望して首を吊って自害した。指導者を失った叛徒は瓦解し、懐忠は六千余人を捕らえ、王均の首や偽の儀仗を得た。牛冕・張適は流罪となり、王欽若・梁顥が蜀の民を撫恤した。二年後、張詠が再び益州知事となると蜀の民は歓喜し、真宗も「卿が蜀にいれば西方の憂いはない」と称賛した。
李継遷の跋扈と靈州の攻防
真宗の即位に際し李継遷は帰順を装って藩鎮の封を求め、真宗は大喪中でもあり要求を容れて定難節度使とし夏・綏・銀・宥・靜の五州を与え、趙保吉の名も返した。しかし継遷は表向きの服従とは裏腹に辺境を荒らし続けた。
張斉賢は失態で宰相を退き涇原経略使となり、靈武放棄を真宗に進言した。これに対し何亮は「靈武を捨てれば戎狄が利を得る」「西域と戎狄が結びつく」「戦馬の供給源を失う」の三患を挙げて反対し、溥楽・耀徳の二城を築いて糧道を確保する策を上奏した。真宗は群臣に再議させたが意見はまとまらず、李沆は「継遷が生きている限り靈州は保てない」として密かに撤退する策を提案した。真宗は決めかねたまま王超に六万の兵を与えて靈州へ向かわせた。
継遷は清遠軍を陥落させ、定州・懐遠を攻めたが曹璨に撃退された。咸平五年、継遷は再び靈州を包囲し、知州の裴済は籠城したが糧道を断たれ、指を噛んで血書で救援を求めるも援軍は来ず、力尽きて巷戦の末に戦死した。真宗は裴済の家族を厚遇し、李沆の献策を用いなかったことを悔いた。継遷は靈州を西平府と改め夏の都とした。
巴喇濟の計略による継遷の死
継遷討伐を願い出た六谷の酋長巴喇濟(潘羅支)は朔方節度使に任じられた。継遷は麟州で敗れ西涼へ転じ、西涼府の丁惟清を殺して城を奪った。巴喇濟は偽って継遷に降伏を申し出て信頼を得ると、蕃部を招集して継遷の閲兵の場に集め、合図の矢を放って継遷の左目を射抜いた。番兵は一斉に継遷に襲いかかり、継遷は側近の犠牲によって辛くも靈州へ逃げ帰ったが、傷が癒えず絶命した。子の徳明が跡を継ぎ、契丹は継遷に尚書令を追贈し、徳明を西平王に封じた。
徳明の帰順と曹瑋の進言
環慶の官吏は徳明の勢力衰退を機に招降を上奏した。徳明は牙将王侁を遣わして帰順を申し出た。知鎮戎軍の曹瑋は「継遷の死んだ今こそ夏を滅ぼす好機」と上書したが、真宗は喪に乗じることを避け、徳明を定難軍節度使に任じて夏・銀・綏・宥・靜の五州を統轄させた。契丹が徳明を西平王に封じたのに合わせ、宋も同様に封じた。徳明は誓表を奉じ父の遺命として帰順を誓った。
契丹の侵攻と王継忠の変節
契丹は莫州での敗退後二年間静かであったが、継遷の靈州包囲を機に再び侵攻の兆しを見せた。真宗は王顯・王超を配して防備させ、遂城では王顯が契丹軍を大破した。咸平六年、契丹は望都を攻め、王継忠が王超・桑贊と共に迎撃したが、超・贊は敵の勢いを見て退却し、継忠のみが孤軍で奮戦、白城まで追い詰められて包囲された。継忠は超・贊の裏切りを嘆きつつ死戦したが、馬が矢に倒れて捕らわれ、契丹に降って耶律顕忠と改名し戸部使となった。宋廷は戦死と誤認して手厚く弔った。
澶淵の役への序章
咸平六年末に改元し景徳元年となった。地震が続き、皇太后李氏が崩じ、首相李沆も病没した。真宗は沆の死を深く悼み、太尉中書令を追贈した。畢士安・寇準が新たに同平章事となった矢先、契丹主隆緒と蕭太后が二十万の大軍で侵攻したとの警報が相次いだ。寇準は主戦、畢士安もこれに賛同したが、王欽若ら他の臣は守勢や和議を主張し議論は割れた。宋軍は威虜・順安・北平砦・保州で契丹を退け、定州・岢嵐軍・瀛州でも勝報が続いた。
その後、契丹側から降将王継忠を通じて和議の打診があり、莫州都部署石普の上奏で伝えられた。畢士安は「契丹は深入りしたが戦果を得られず、名分なく退くことを恥じている」として和議は本心だろうと分析し、真宗は和議を許した。使者曹利用が契丹軍に赴くと、蕭太后は関南の地の割譲を要求したが、利用は毅然と拒否し交渉は決裂、契丹軍は徳清軍を陥れ冀州、澶州へと迫った。
寇準の進言と真宗の親征
急報が相次ぐ中、王欽若は金陵への、陳堯叟は成都への避難を進言した。真宗が寇準を呼ぶと、寇準は「五日で敵を退けられる」と述べ、親征を強く勧め、避難を進言した者を斬るべしとまで言い切った。畢士安も同意し、真宗はついに親征を決意した。寇準はさらに天雄軍の守将として王欽若を推薦し、欽若は不満ながらも受け入れざるを得なかった。雍王元份を留守とし、真宗は諸将を従えて出陣した。
続きは次回に語られる。
評語
靈武は河西の要地であり、軽々しく放棄すべきではなかった。何亮の上奏はその理を明確に説いていたにもかかわらず、張斉賢・李沆らは放棄を主張した。真宗自身は守る意志があったものの、将の人選を誤り、曹彬が推挙した曹璨・曹瑋を用いず無能な王超を任じたために裴済を見殺しにした。曹瑋が継遷討伐の好機を進言しても朝議は喪を討たぬ道理を持ち出して退けるなど、宋の儒者的な迂遠さが夷狄に制せられる原因であった。契丹の侵攻に際し王欽若・陳堯叟が遷都を進言したとき、寇準がいなければ宋はたちまち偏安の小朝廷と化していただろう。当時の人々は寇準を「学問無き者」と譏ったが、博学の士が果たして内憂外患をよく治められたであろうか。