宋史演義第二十一回 康保裔、血戦し身を亡う/雷有終、火攻して匪を平ぐ (康保裔血戰亡身  雷有終火攻平匪)

論功と重臣の死

真宗は即位後の恩賞を一通り終え、楚王擁立を謀った李昌齡・王継恩を左遷し、胡旦を除名・流罪とした。呂端・李至は病を理由に辞任し、張斉賢・李沆が同平章事、向敏中が参知政事となった。翌年、枢密使兼侍中の曹彬が没した。彬は生前朝廷に逆らわず人の過失も口にせず、二国を征しても私財を取らず、俸禄の多くを貧者に施した清廉な人物であった。臨終に真宗が契丹への対応を尋ねると、彬は和議を保つよう勧め、子の曹璨・曹瑋を将才ありと推挙した(瑋の方が優れると評した)。彬の死に真宗は深く悼み、中書令・済陽王を追贈した。翌年には呂端も没し、太宗が「小事には疎いが大事には誤らない」と評した通り、鎖閣定策で功を上げた宰相として司空を追贈された。

傅潜の怯懦と康保裔の壮絶な戦死

咸平二年十月、契丹主隆緒が再び大挙して侵攻した。鎮定高陽関都部署の傅潜は八万余の兵を擁しながら出撃を恐れ、営を閉ざして守るのみで、進言する将校を口汚く罵った。副将の范廷召が説得を試みても潜は「守るのみ」の一点張りで応じず、廷召を怒らせた。潜は都鈐轄張昭允を通じて朝命に渋々応じるふりをし、廷召にわずか一万の兵をあてがって前線へ追いやろうとした。廷召は兵の少なさを見抜き、単独出撃は危険と悟って、并・代都部署の康保裔に応援を求めた。

康保裔は洛陽の人で、代々戦死した将門の家に生まれ、忠義の将として知られていた。廷召の求めに応じ、兵一万を率いて急行した。しかし契丹軍はすでに狼山寨を破り、諸州に深く侵入していた。保裔は敵の後方を突こうとしたが、廷召の援軍が遅れる中、敵軍に幾重にも包囲された。将士は変装しての脱出を勧めたが、保裔は「臨難毋苟免(危難に臨んで安易に逃れない)」と述べて出撃を選び、朝から晩まで奮戦して数千の敵を討ち取ったものの、自軍もまた多くを失った。二日目の激戦でも死闘を続けたが、味方は減る一方で敵は補充が絶えなかった。矢も尽き、援軍も来ぬまま、保裔は残った数百の傷兵に「お前たちは逃げよ」と告げ、自らは敵中に斬り込んで数十人を斬った後、力尽きて壮烈な戦死を遂げた。

保裔の死により全軍は壊滅した。援軍の張凝・李重貴が駆けつけて辛くも契丹軍を退けたが、廷召は保裔戦死の報に進軍をためらい瀛州西南で駐屯するにとどまった(史書によっては廷召の遅参を批判する)。契丹軍はさらに遂城を攻めたが、楊業の子・楊延昭が民兵を組織し、極寒の中で城壁に水を撒いて凍らせる策で城を守り抜き、契丹軍は撤退して德・棣方面へ転じた。

真宗親征と論功行賞

真宗は自ら親征し、大名まで進んだ。保裔の死を知って輟朝し、侍中を追贈、その子らに官職を与えた。継英らが感謝して伏し泣くと、真宗は保裔の母・妻にも封号を与えるよう命じた。

集賢院学士の銭若水は傅潜の誅殺を求め、真宗は高瓊を派して潜を更迭、按問の結果、潜は死罪相当とされたが流罪に減じられ、張昭允も連座して流された。范廷召らはやがて契丹軍を追撃し莫州で大勝、廷召は并・代都部署、楊延昭は莫州刺史に昇進した。真宗は延昭を召して「父業の名将ぶりを継いでいる」と称賛し、厚く賞した。

同年冬、契丹が再侵すると延昭は羊山に伏兵を配し、誘い込んで大破、敵将の首を献じて団練使に昇進した。契丹は延昭を恐れて「楊六郎」と呼んだ(俗説にある楊大郎・七郎等の名は史実に基づかない)。楊嗣も同様の武功で団練使となり、二人は「二楊」と称された。

益州の兵乱と王均の乱

真宗が帰京の途中、益州で王均を首謀とする兵変が起きたとの報が入った。都巡検使劉紹栄は自殺、兵馬鈐轄符昭寿は殺害され、事態は急を告げた。真宗は雷有終を川峡招安使に任じ討伐を命じた。もと益州は雷有終と張詠の統治で治まっていたが、その後の知事牛冕は無能、符昭寿は横暴で、兵士の不満が募っていた。都虞侯の王均・董福が指揮する軍で、董福の部隊は待遇が良く軍紀が保たれていたが、王均は軍餉を横領し部隊は貧弱だった。閲兵の際にその差が露わになり、王均配下の趙延順らは恥辱と怨みから咸平二年大晦日に反乱を起こし、符昭寿を殺害した。

元旦、益州は混乱に陥り、牛冕・張適は逃走、劉紹栄は叛徒への合流を拒んで抗戦の末自刃した。監軍の王沢に招安を促された王均は、成り行きで叛徒の首領に担がれ、大蜀を号し化順と改元、漢州を陥落させたが綿州・剣州では敗れて益州へ退いた。

楊懐忠らの討伐軍は一進一退の戦いを続け、雷有終らが益州に迫ると、王均軍は敗走したかに見えたが、実は伏兵の罠であった。油断して城内に入った官軍は略奪に浮かれたところを叛軍に急襲され、雷有終・石普は城壁から飛び降りて辛くも逃れ、李恵は討ち死にするなど大損害を被った。

その後、官軍は態勢を立て直し、再び益州を攻めた。伏兵戦で王均を打ち破り、城を包囲。長雨で攻めあぐねたが、晴れ間を突いて火矢・火炬で城楼を焼き払い、ついに城内へ突入した。王均は二万余の兵と共に夜陰に紛れ脱出した。有終は再度の襲撃を警戒し、家々に火を放って焼き払い、翌日には捕らえた偽官二百人を火中に投じた。

王均のその後の消息は次回に語られる。

評語

『宋史』忠義伝で最初に挙げられるのが康保裔であるため、本回はその戦いを詳しく描き忠節を顕彰した。傅潜は塞外に大軍を擁しながら出撃を恐れ、良将を見殺しにした罪は誅されても当然であるのに、真宗は死罪を流罪に減じ、逆に部下の張昭允が連座で罰せられたのは刑罰の均衡を欠く。西蜀の乱は李順・張餘の乱に続くもので、鎮定に三年を要した。本来なら良吏を長く任じて禍根を断つべきであったが、雷有終・張詠らを次々に異動させ、無能な牛冕・符昭寿に代えたことが王均の乱を招いた。前半は苦戦、後半は比較的容易に鎮圧されたとはいえ、兵民の死傷は少なくなく、益州の混乱は繰り返し起こるものであった。雷有終は策に嵌められて兵を失い、王均は敗走して民を巻き添えにした。これらを見るにつけ、遺憾の念を禁じ得ない。