宋史演義第一十二回 明徳楼にて綸音もて俘を釈く/万歳殿にて燭影疑いを生ず (明德樓綸音釋俘 萬歲殿燭影生疑)
徐鉉の哀訴
南唐の使者徐鉉は太祖に停戦を懇願するが、太祖は「臥榻の傍らに他人の鼾を許さぬ」と一蹴し、剣を抜いて威嚇した。徐鉉はなすすべなく帰国する。
金陵陥落
呉越王銭俶も宋に呼応して常州を攻め落とし、江南の領土は急速に失われた。曹彬は力攻めを避け、諸将に「城を落としても妄りに殺すな」と誓わせるため、あえて仮病を使って諸将から不殺の誓いを取り付けた後、城を攻略した。城内では侍郎陳喬が自害し、学士鍾蒨は一家で服毒自尽したが、張洎は約束を破って生き延びた。李煜はついに群臣を率いて降伏し、曹彬は丁重に扱って汴京への同行を約束させた。
太祖の受降
太祖は明徳楼で降伏の儀を行い、李煜を辱めぬよう配慮した詔を下し、「違命侯」に封じて厚遇した。李煜の妻も鄭国夫人に封じられ、子弟にも官が与えられた。南唐は李昪の建国から三代四十八年で滅びた。
論功行賞
出陣前の約束にもかかわらず、太祖は北漢平定を理由に曹彬への使相授与を先延ばしにし、代わりに多額の金銭を賜った。曹彬は「人生に使相など必要ない、役得で十分」と笑って部下に語った。江州で頑強に抵抗した胡則を屠戮を伴って平定した曹翰は逆に昇進し、殺さぬ将と殺す将とで扱いに差が出たことが皮肉として記される。
呉越の入朝と西京行幸
呉越王銭俶は太祖に招かれて入朝し、厚遇された。開宝九年、太祖は西京巡幸に際して銭俶を早く帰国させ、群臣が銭俶引き留めを願う上奏文の束をひそかに餞別として持たせるなど、懐柔策を用いた。太祖は洛陽、さらに長安への遷都を望んだが、弟の光義(晋王)に「徳にあるので険にあらず」と諫められ断念、汴京に戻った。
北漢再征と太祖崩御
太祖は北漢へ再度出兵させるが、北漢主劉継元が遼に救援を求め、遼軍来援の報に加え太祖の急病の報で宋軍は撤兵した。太祖は一時快復するが冬に再発し病床に伏し、政務は晋王光義に委ねられた。ある雪夜、光義が急遽召し出され、太祖の枕元でただ二人となる。周囲は「そなたよく頼む」というような太祖の声と、燭影が揺れ光義が退くような気配、柱斧を地に突く音を漏れ聞いた。まもなく太祖は崩御(「燭影斧声」の謎として後世まで語り継がれる)。正史『宋史・太祖本紀』はこの経緯を記さず、著者もあえて断定を避けている。
光義の即位
皇后宋氏や皇子徳昭・徳芳は悲嘆に暮れたが、光義(晋王)だけは涙を見せなかったと記される。内侍王継恩は「金匱の盟約により太祖は晋王に位を伝えることを定めていた」と宋后に告げ、宋后は光義に母子の助命を託した。光義は即位して太宗となり、太平興国と改元。弟の光美(廷美と改名)を開封尹・斉王とし、甥の徳昭・徳芳にも官を与えた。太祖の在位は十三年であった。
評語
原文の評は、李煜は酒色と仏教に溺れて亡国を招いたが、宋への恭順は尽くしていたとし、太祖が「臥榻の側に他人の鼾を許さず」と直截に言い放った方が明徳楼の詔の美辞麗句より率直だったと評する。燭影斧声の一件については真偽を断定できないとしつつ、太祖臨終の際に近親・宰輔を呼ばず光義一人だけを侍らせ、遺詔もないまま即位に至った経緯、さらに宋后が母子の助命を乞うた事実に、宮廷内の語られざる事情があったのではと示唆する。