宋史演義第一十三回 呉越王、誠に帰し土を納む/北漢主、窮蹙して降を乞う (吳越王歸誠納土 北漢主窮蹙乞降)
太宗の即位と后妃
太宗は太平興国と改元し、御名を炅と改めた。先妻の尹氏・符氏はすでに没しており追封された。李妃を寵愛し、後の真宗となる元侃らをもうけたが、李妃自身は后位が定まらぬまま病没した。翌年、李処耘の娘を新たに宮中に入れ、雍熙元年に皇后として立てた。
陳洪進の来歴と納土
平海軍節度使の陳洪進は、旧主留従効の死後に混乱に乗じて実権を握った経緯を持つが、宋の威勢を恐れて早くから朝貢を続け、太平興国三年、漳・泉二州の版図を献上して宋に帰順した。
呉越の納土
陳洪進の帰順に動揺した呉越王銭俶は、家臣崔仁冀の進言もあり、自ら十三州の版図を宋に献上する上表文を奉った。太宗はこれを嘉納する詔を下し、銭俶を淮海国王に封じ、一族にも厚く官職と待遇を与えた。呉越は銭鏐の建国から五代八十一年で宋領となり、東南一帯はすべて宋の統治下に入った。
北漢征討の議
薛居正らは北漢征討に消極的だったが、曹彬は「周世宗・太祖の失敗は北漢の強さゆえではなく偶発的事情による」と述べ、太宗の決意を後押しした。太宗は潘美を北路招討使とし、四方から太原を攻めさせ、郭進には石嶺関で遼の援軍を阻ませる任を与えた。
白馬嶺の戦い
北漢は遼に救援を求め、遼は耶律沙・敵烈を派遣する。血気にはやる敵烈は制止を聞かず澗を渡って進撃し、郭進に討ち取られた。耶律沙軍も混乱し敗走したが、耶律斜軫の援軍によって辛くも壊滅を免れた。
太原包囲
宋軍は太原を長期包囲し、劉継業(楊業)が守備の要となって城壁修復にあたるなど奮戦する。遼への急使も郭進に捕らえられて処刑され、後詰めは絶たれた。太宗自ら猛攻を指揮し、輔超が満身創痍になりながらも登城を試みるなど激戦が続いた。矢戦や投降勧告を経て、宣徽使范超・指揮使郭万超らが相次いで降り、劉継元もついに降伏を決意する。
北漢の滅亡
太宗は城北で降伏の儀を執り行い、劉継元を検校太師右衛上将軍・彭城郡公に封じて厚遇した。城内でなお抗戦を続けていた劉継業(楊業)も、劉継元の説得を受けて降伏。太宗はその忠勇を愛でて右領軍衛大将軍に任じ、以後「楊令公」として知られることになる。北漢はこうして滅亡した。
評語
原文の評は、呉越は最も恭順で、機を見て版図を献上したことは浙民に害を及ぼさぬ賢明な選択であり、今なお浙人に慕われているとする。一方北漢は遼を頼みに堅城に拠り、兵糧・援軍が尽きて初めて降伏したため、数十万の宋の精鋭を数か月も太原に釘付けにし軍を疲弊させた点で、宋にとって手放しで喜べる勝利ではなかったと結ぶ。