宋史演義第九回 川軍を破り孱王命に帰す/蜀の俘を受け美婦恩を承く (破川軍孱王歸命 受蜀俘美婦承恩)
蜀主孟昶の失政と挑発
後蜀の主孟昶(孟知祥の子)は荒淫で、王昭遠・韓保正ら不適任な臣を重用していた。母李氏は用兵の見通しの甘さを憂えたが聞き入れられず、宋が荊湖を平定すると宰相李昊が朝貢を進言するも、王昭遠は蜀の険阻な地形を頼みに拒否を勧めた。さらに昭遠の勧めで孟昶は北漢と結んで宋を挟撃しようと密書を送ったが、使者趙彦韜がこれを裏切り太祖に献上、宋に開戦の口実を与える結果となった。
宋軍の出師
太祖は王全斌を都部署、劉光義・崔彦進を副、王仁贍・曹彬を都監とし、六万の兵を二手に分けて蜀へ進発させた。出陣に際し、太祖は将士に略奪の分配を許しつつ土地の獲得のみを目的とすると訓示し、また蜀主が降れば手厚く遇すると命じた。
北路の快進撃
王昭遠を都統とする蜀軍が迎撃に出るが、宋軍先鋒史延徳が韓保正・李進を撃破して捕らえ、羅川で王昭遠軍と対峙。崔彦進らが浮橋を強襲して渡河し、王昭遠は漫天砦に退く。宋軍は三方から挟撃してこれを大破、昭遠はさらに桔柏江を渡って劍門に籠もった。宋軍は降兵の道案内で来蘇の間道から劍門を奇襲、都監趙崇韜を捕らえ、王昭遠も逃亡先で捕縛された。
南路(夔州方面)の攻略
劉光義・曹彬の軍は夔州を目指し、蜀の高彦儔・武守謙が浮橋と砲で防備していたが、宋軍は陸路から夜襲をかけ浮橋を奪取。高彦儔の籠城の進言を無視した武守謙が出撃して敗れ、宋軍が城内へなだれ込むと、高彦儔は数十の傷を負いながら自邸で西北を拝して自焚し節に殉じた。宋軍はその後、峡中の諸州を次々と降し東路を平定した。
成都陥落と孟昶の降伏
太子玄が援軍として派遣されるも、軍務そっちのけで歌舞に興じるありさまで、劍門陥落の報を聞くとそのまま逃げ帰った。孟昶は絶望し、李昊の勧めで宋への帰順を決意、降表を送った。全斌は成都に入城し孟昶を厚遇、後蜀は孟知祥から二代三十二年で滅んだ。太祖は孟昶とその一族を汴京に招き、検校太師・中書令・秦国公に封じ、王昭遠ら捕虜も釈放した。
花蕊夫人と太祖の下心
太祖が孟昶の一族を厚遇した真意は、絶世の美女と噂される孟昶の妃・花蕊夫人(徐氏)に会うためであった。入宮の際、太祖は花蕊夫人の美貌に心を奪われ、以後彼女への執心を募らせる。ちょうど皇后王氏が乾徳元年に没していたこともあり、太祖は人妻である花蕊夫人を奪う機会をうかがった。
孟昶の急死と花蕊夫人の入宮
ある夜、太祖に招かれ酒宴に出た孟昶は、帰邸後まもなく体調を崩し、数日のうちに急死した(享年四十七)。太祖は喪に服する体裁を取り、楚王を追封するなど手厚く弔った。孟昶の母李氏は太原への帰郷を望んだが、太祖は北漢平定後を約すのみであった。孟昶の死に対し李氏は「社稷に殉じなかった息子」を責めつつも断食して後を追い没した。喪が明けると、太祖は喪服姿の花蕊夫人にいっそう心を奪われ、ついに宮中に留めて侍らせ、翌日には妃に冊立した。花蕊夫人は内心では孟昶を慕い続け、密かに昶の肖像を描いて「張仙」だと称し祈りを捧げた。これが後世「張仙送子」の俗信の由来になったという。
評語
著者は、孟昶が寵妃と佞臣に溺れて自滅を招いたうえ、北漢と結んで戦端を開いたことを愚かと断じ、王昭遠が諸葛亮を自任しながら無能であったことを嘲る。また太祖が孟昶を厚遇したのは花蕊夫人への下心からに過ぎず、正史がこの経緯を伏せて記さないのは「君のために悪を諱む」ためだとしつつ、孟昶が入京後まもなく不審な急死を遂げた事実や史書の断片的な記述から、著者はその真相を推察し、正史の欠を補うものとして本回を著したと述べている。