宋史卷四百九十 列傳第二百四十九 天竺

天竺国

  • 天竺国はもと身毒、または摩伽陀・婆羅門とも呼ばれ、浮図(仏教)を宗とし飲酒肉食を戒める。漢武帝の頃から使者が試みられたが昆明に阻まれ、後漢明帝の金人の夢を機に仏教が伝わった。梁の武帝・北魏宣武帝の代にも貢献があり、隋の煬帝は西域諸国と通じたが天竺だけは通じなかった。唐貞観以後、朝貢が相継ぎ、乾元末の河隴陥没後は途絶えた。
  • 後周広順三年、西天竺の僧薩満多らが名馬を貢いだのが宋以前の記録。乾徳三年、滄州の僧道円が西域から仏舎利や梵経を持ち帰り、太祖に西域の風俗・地理を詳細に語った。乾徳四年には僧行勧ら百五十七人が西域求法を願い出て許され、甘・沙・伊・粛等の州を経由した経路が記される。開宝八年、東印度王子穰結説囉が朝貢し、天竺の王位継承の風習(太子以外の王子は出家する)を持つ王子曼殊室利が相国寺に館し、後に南海経由で帰国した逸話が記される。
  • 太平興国七年、益州僧光遠が天竺から帰り、王の没徙曩の表を伝えた。天竺僧施護がこれを訳し、支那国の聖明を慕う旨を伝えた。施護は烏塤曩国の人で、その本国から中印度・南印度を経て中国に至る経路(乾陀羅国・曩誐囉賀囉国・波斯国などを経由)が詳細に記される。八年、僧法遇が天竺から三佛齊経由で帰る途中、天竺僧彌摩羅失黎の伝言を伝え、以後、諸国王への詔書を持たせて派遣した。雍熙年間、僧辭澣が北印度王の書を伝え、婆羅門僧永世(本国名利得国)と波斯外道阿里烟が同時に京師に至った記事もある。至道二年以降も梵経・仏骨などの献上が続いた。