于闐国
- 于闐国は漢から唐まで入貢したが、安史の乱後途絶えた。後晋天福年間、王李聖天が唐の宗属を自称して朝貢し、高祖は張鄴を遣わし大宝于闐国王に冊立した。建隆二年、聖天は玉柙入りの圭・玉枕などを貢いだ。国は京師から九千九百里、西南は葱嶺で婆羅門と接し、東は吐蕃、西北は疏勒に至る。白玉河・緑玉河・烏玉河があり、秋に玉を採る「撈玉」の風習が記される。
- 乾徳三年、于闐の僧善名らが来朝、宰相が枢密使李崇矩に通交を求める書を送った。開宝二年、玉塊二百三十七斤の献上を願う使者があり、四年には破疏勒国で得た舞象の献上を申し出た。大中祥符二年、黒韓王が回鶻羅厮温らを遣わし、道中の安全(瓜沙から于闐までの治安改善)を報告した。太平興国年間の澶州卒王貴の異譚(夢か幻の中で于闐国北の通聖山に至り玉印を授かる話)が付記される。
- 天聖三年、羅面于多らが玉鞍轡・白玉帯・独峰槖駝・乳香・砂などを貢いだ。嘉祐八年、王に特進・帰忠保順&KR2091;鱗黒韓王の号(可汗の訛りという注記あり)が贈られた。熙寧以降は毎年ないし隔年で朝貢が続き、珠玉・珊瑚・翡翠・象牙・乳香などが貢がれたが、無用な乳香の過剰な持ち込みは元豊初に制限された。元豊四年、使者阿辛が黒汗王の書を伝え、董氈(青唐)を経由して熙州に至った経路が記される。神宗は使者に旅程や周辺国の様子を尋ね地図を作らせた。紹聖年間、于闐は緬薬(西夏系勢力)が甘・沙・粛三州を攻めたことを報告し、知秦州游師雄は「于闐・大食・拂菻等の朝貢が相次ぎ、有司が二年に一度に制限しているのは遠人を慰撫する道ではない」と論じ、以後宣和年間まで朝貢が絶えなかった。