勃泥国と注輦国
- 勃泥国は西南の大海中にあり、闍婆から四十五日、三佛齊から四十日の距離。城は版築で、王は繩牀に座し外出時は輿(阮嚢)に乗る。銅を鋳た甲を着て戦い、婚礼には椰子酒・檳榔・指環・吉貝布の順で贈り物をする。前代は朝貢の記録がなかったが、太平興国二年、王向打が施弩らを遣わし、大片龍脳をはじめとする詳細な品目の貢物と表を献じた。表文は華言に訳され、その素朴な文面(「皇帝万歳万歳万万歳、願皇帝万歳寿」等)が記録される。元豊五年、王錫理麻喏がさらに使者を送り、泉州から海舶で帰国することを願い許可された。
- 注輦国は東は海まで五里、西は天竺まで千五百里、南は羅蘭まで二千五百里、北は頓田まで三千里という遠方で、古来中国と通じなかった。城は七重で塼・土・木を使い分け、四子居住区・仏寺(僧百人)などの構成が詳しく記される。統治下に三十一の部落があり、犯罪者は木格に繋いで笞刑、重罪は象で踏み殺す。婚姻は金銀の指環を用い、離縁の際の聘財の扱いも詳しい。象を先頭にした軍陣の編成も記される。
- 大中祥符八年、国主羅茶羅乍が娑里三文らを遣わし、真珠・碧玻璃を殿上で撒く独特の礼をもって長文の表を献じた。使者は本国から広州まで千百五十日をかけて多くの島や山を経由したとされ、その航路が詳細に記録される。天禧四年、使者琶欄得麻烈呧が広州で病死し、朝廷は従者を手厚くもてなして帰した。明道二年、王尸離囉茶印囉注囉が泥金の表と真珠衫帽を献じ、使者蒲押陁離は龍牀の前で真珠を撒く独自の礼を行った。熙寧十年、王地華加羅の使者が真珠・龍脳を撒いて謝意を示す「撒殿」の礼を行い、王には銭八万一千八百緡・銀五万二千両が答賜された。