交阯の建国経緯(丁氏の自立まで)
- 交阯はもと漢初の南越の地。漢武帝が南越を平定して儋耳・珠崖・南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南の九郡を置き、交阯刺史でこれを統轄した。後漢は交州を置き、晋宋斉梁陳もこれを踏襲、隋は郡を置き煬帝は州を廃して郡とした。唐は安南都護府を置いたが、後梁貞明年間、土豪曲承美が自立し、劉隠がこれを討って捕えた。以後、楊延藝・紹洪らが広南の署を受けて交阯節度使を称し、紹洪の死後は州将呉昌岌・昌文が位を継いだ。
- 呉昌文の死後、参謀呉処坪・矯知護・楊暉・杜景碩らが十二州の領有を争い大乱となったが、丁部領(楊延藝の牙将丁公著の子)が処坪らを討って賊党を潰し、境内を平定した。交州の民はこれに徳とし、部領を推して大勝王と号し、子の丁璉を節度使とした。三年後、部領は璉に位を譲り、璉が立って七年、宋の嶺南平定を聞いて使者を送り内附、丁璉は静海軍節度使・安南都護に任じられた。
丁氏・黎氏の交替(太宗朝の征討)
- 丁部領・丁璉の死後、璉の弟の璿が幼くして嗣ぎ、大将黎桓が権を専らにして璿を別邸に移し監禁、軍府を代行した。太宗はこれを怒り、太平興国五年、孫全興・張璿・崔亮を陸路、劉澄・賈湜・王僎を水路の兵馬部署として交州征討の軍を発した。黎桓は丁璿の名で表を上げ弁明したが、宋軍は進撃し賊軍を破り首級二千余を得るなど戦果を挙げた。しかし転運使侯仁宝の軍が先行しすぎ、黎桓の詐降策にかかって仁宝は殺害され、宋軍は撤兵に至った。関係者は劾せられ、仁宝は工部侍郎を追贈された。
- 太平興国七年、桓は懼れて再び丁璿の名で謝罪の表を上げ、翌年には権交州三使留後を自称して方物を貢いだ。太宗は詔で「丁氏三世の恩義を思い、丁璿が成長するまで卿(黎桓)が輔佐せよ」と諭したが、黎桓はなお土地を専有し、命に従わなかった。雍熙年間には占城との戦や、交州から逃れた蒲羅遏らの内附が記される。雍熙三年、宋は制を下して黎桓を検校太保・静海軍節度使・安南都護・交州管内観察処置使に任じ、京兆郡侯に封じ推誠順化功臣の号を賜った。
黎桓(大瞿越)の朝貢と使者の見聞
- 端拱元年、桓は検校太尉を加えられた。淳化年間、宋使宋鎬・王世則らが交州に赴き、その見聞(黎桓の出迎え・城内の様子・宴席の風俗・虎や大蛇を饋る珍風・兵制など)を詳しく復命した。桓の性は残忍で、閹官らを側近に置き、些細な過失でも部下を鞭打ったとされる。
- 至道元年前後、桓の管轄地が欽州如洪鎮などを侵し寇害を及ぼしたため、広南西路転運使張観らが上言。当初は桓が丁氏に逐われ死んだとの誤報が流れたが、大商人の証言で桓が存命と判明し、誤報を伝えた官吏は罪に問われた。陳堯叟が転運使として桓に詔書を伝え、逃亡民の引き渡し問題などを処理した。桓は謝意を表し辺境の取り締まりを約束した。
- 太宗は主客郎中李若拙を国信使として派遣、桓は郊外に出迎えたが言葉には尚も傲慢さが残っていた。真宗即位後、桓は南平王・侍中に進封され、犀角・象牙など多くの貢物を献じた。咸平年間、子の明提が驩州刺史として貢使に立ち、宋は邵曄を国信使として遣わした。景徳三年、桓が卒し、諸子(龍鉞・龍全・龍廷・明護)の間で内紛が起きた。国信使邵曄が緣海安撫使として調停し、龍廷が節度を継いで開明王を自称、朝廷は当初これを認めなかったが結局至忠と改名させて認めた。
李公蘊の代(李朝の成立)と歴代の朝貢
- 至忠は年若く苛虐であったため国人の支持を失い、部将李公蘊が至忠を逐って自立、明提・明昶らを殺害した。真宗は「黎桓・丁氏の悪しき前例に倣うものだが、蛮俗ゆえ咎めない」として桓の故事に倣い、公蘊を静海軍節度使・安南都護・交阯郡王に任じた。以後、公蘊は太宗御書を求めるなど文化的な親近も示し、大中祥符四年には同平章事を加えられた。
- 公蘊の死後、子の徳政が継ぎ、天禧年間に南平王に進封された。徳政の代、境上での紛争(甲峒・諒州等の蛮の侵寇)や、儂智高の反乱に際し徳政が援軍を申し出た事跡が記される(朝廷は賜物のみで兵は退けた)。至和二年、徳政が卒し子の日尊が継ぎ、交阯郡王に任じられた。
- 嘉祐年間、日尊の下で辺境紛争が続き、余靖らが討伐の兵を発する構えを見せると、日尊は恐れて謝罪し貢奉を続けた。治平年間、知桂州陸詵の上言に対し韓琦は「黎桓の叛服・交州の険阻な山路を思えば、地を得ても守り難い」と論じた。神宗即位後、日尊は南平王に進封され、熙寧二年には占城討伐の戦果を報告し、自ら「大越」国号を称し「寶象」と改元するなど独自の帝号を用いた。熙寧五年、日尊が卒し、宋は奪った州県を返還する詔を発し、広源州などを交州(李朝)に与えた。
神宗〜徽宗朝の紛争と関係の推移
- 元豊年間、乾徳(李朝の王)は儂智会追討を口実に境を侵し、経畧使熊本が対応した。哲宗の代、乾徳はしばしば境界の変更を求めたが許されず、徽宗朝には開府儀同三司・検校太師を加えられ、書籍購入も一部制限付きで許可された。政和末、交人が長らく事を起こしていないとして和市の禁が緩められた。
- 高宗紹興二年、乾徳が卒し子の陽煥が嗣いだ。陽煥の卒後、子の天祚が嗣ぎ、乾徳の庶子で大理に亡命していた趙智之が平王を称して王位を争う一幕もあったが認められなかった。天祚は歴代にわたり多くの功臣号・食邑を加えられ、乾道九年には貢使の受け入れを巡り経畧安撫使范成大が「陪臣は中国の王官と対等の礼を取るべきでない」と旧制の遵守を求めた。淳熙元年、天祚は安南国王に進封され、安南国印・国暦を賜った。
- 天祚の死後、子の龍が継ぎ、寧宗朝まで多くの功臣号を加えられた。嘉定五年、龍が卒し子の昊旵が襲封したが、その後謝表が途絶え加恩は停止された。昊旵は嗣子なく、女の昭聖が国を治めた後、その婿の陳日煚が国を有するに至った。李氏の建国(公蘊)から昊旵まで八代・二百二十余年で国は滅んだ。淳祐二年、宋は安南国王陳日煚に功臣号を加え、宝祐六年には国情不穏として辺備を厳にするよう命じた。景定二年には象を貢ぎ、三年には世襲を願い出て検校太師・安南国大王に、子の威晃も官爵を授けられた。咸淳五年・八年にもそれぞれ食邑や恩賜が加えられた。