大理国
- 大理国はすなわち唐代の南詔である。熙寧九年、金装碧玕山・氈罽・刀剣・犀皮甲・鞍轡などを貢いだが、以後は不定期の来貢で鴻臚寺の管轄にも入らなかった。政和五年、広州観察使黄璘が「南詔大理国が臣属を望んでいる」と上奏し、賔州に窓口を設けることが許された。
- 政和六年、天駟爽彦賁李紫琮らが使者として来訪し、荆湖南路経由で入京する道中、途中の官吏が私利のため道筋を歪めた不正が発覚し処罰された。使者一行は鼎州で学校を訪ね聖像を拝したいと願い許された。政和七年、京師に至り馬三百八十匹・麝香・牛黄などを貢ぎ、その王段和誉は金紫光禄大夫・検校司空・雲南節度使・大理国王に任じられた。しかし黄璘の詐冒(不正な功績報告)が発覚し罪を得て、以後大理は中国と通じず、黎州での互市のみとなった。
- 紹興三年、広西が大理の入貢と馬の売却を求める上奏をしたが朝廷は虚名に労力を費やすことを望まず却下、朱勝非は「かつて黄璘が大理入貢で罪を得た例がある」と述べた。帝は「遠方異域では事実の確認が難しいが、正当な馬価さえ支払えば馬は得られ、騎兵の益になる」と応じた。紹興六年、広西経畧安撫司が大理の再入貢の表を伝え、朝廷は経畧司に迎接させた。朱震は「馬の売買は謹厚な人物に任せ、事を好む者を送らぬように」と献策した。淳熙二年、知静江府張栻は辺防の強化を上言し、「大理を制するには邕州管内から始めるべき」と論じた。