宋史卷四百八十九 列傳第二百四十八 占城

占城国の地理と風俗

  • 占城国は中国の西南にあり、東は海、西は雲南、南は真臘、北は驩州に接する。海路で南へ三佛齊まで五日、陸路で賓陀羅国まで一月。地は東西七百里・南北三千里で、施備・上源・烏里の三州を中心に大小三十八州、村落は三、五百戸から七百戸ほどで城郭を持たない。産物は箋沈香・檳榔・烏木・蘇木・白藤・黄蠟・吉貝の花布・藤簟などで、稲・粟・豆・麻を産し租は収穫の百分の一。孔雀・犀牛・黄牛・水牛を産するが驢馬はいない。牛を殺す際は巫祝に祈らせる風習があり、犀角・象牙は王に献じられる。通貨に緡銭を用いず金銀や吉貝錦で取引する。楽器に胡琴・笛・鼓があり、舞人も列する。
  • 王は膝下まで垂れる白布を纏い金花冠を戴く。毎日午に禅椅に座して臣下の拝謁を受け、外出時は象や輿に乗る。副王・次王の制があり、無給の高官八名が東西南北を分治する。文吏は五十余員、司帑廩者十二員、軍卒を主る者二百余員がおり、いずれも俸給はないが物資が支給される。兵は一万余、月に米二斛・布を支給される。正月一日には象を市中に牽き邪を逐う儀礼、四月に船遊び、十一月十五日を冬至とする風習があり、十二月十五日には木で塔を組んで衣物や香薬を焼き天を祭る。刑罰は象に踏ませる処刑などがあり、姦通は罰牛で贖う。

建隆〜太平興国年間の朝貢

  • 五代周の顕徳年間、王釈利因徳漫が莆訶散を遣わして通犀帯や薔薇水などの珍品を献じたのが早い記録。建隆二年、王釈利因陁盤が莆訶散を再び遣わし、貝多葉に書いた表と犀角・象牙・龍脳香・孔雀などを献じた。以後、乾徳・開宝年間にも歴代の王(悉利因陁盤・悉利多盤・波美稅ら)が使者を通じて朝貢を重ね、太平興国年間には王及びその子逹智らからの遣使も続いた。
  • 太平興国六年、交州の黎桓が占城捕虜九十三人を献じようとした際、太宗はこれを広州で存撫させ衣糧を給して占城に送り返した。雍熙年間、占城王施利陀盤らは交州に侵されていることを訴え、太宗は隣国と睦むよう詔した。太宗朝には各地に漂着・帰化する占城の民の記録も多い。

淳化〜咸平年間(交州との軋轢、楊陁排の上表)

  • 淳化元年、新王楊陁排が自ら「新坐佛逝国」と称して使者李臻を遣わし、交州に攻められ国中の財産を奪われたことを訴えた。太宗は黎桓に境を守るよう詔した。至道元年正月の上表では、先の進奉使李良莆が細馬・旗・剣・槍・弓弩などを賜って帰った恩に深く感謝し、隣国からの侵犯を防ぐ後ろ盾として宋の威光を頼む旨が述べられ、犀角十株・象牙三十株・玳瑁十斤・龍脳二斤・沈香百斤など詳細な貢物目録とともに、良馬を賜ることを願う内容が記される。また流民三百人の帰国を助けてほしいとの願いも記された。
  • 咸平二年、王楊普俱毗茶逸施离が朱陳堯らを遣わし犀・象・玳瑁・香薬を貢いだ。景徳四年の上表文(王楊普俱毗茶室离の名義)は華麗な四六駢儷文で、宋の威徳を称え臣従の誠を述べる長文が記される。布禄爹地加は「本国はもと交州に隷属していたが後に佛遊に移り、旧地から七百里離れた」と述べた。

大中祥符〜熙寧年間

  • 大中祥符三年、国主施離霞離鼻麻底が朱浡礼を遣わして貢ぎ、四年には獅子を献じて苑中で飼育させた。天禧二年、王尸嘿排摩惵が羅皮帝加を遣わし、象牙七十二株・犀角八十六株・玳瑁千片・乳香五十斤など詳細な品目の貢物を献じ、宋は銀四千七百両と戎器・鞍馬を賜った。この頃、蒲端国・三麻蘭国・勿巡国・蒲婆衆国など周辺の小国も相次いで朝貢し、蒲端国には占城に準じた儀礼で対応する扱いが定められた。
  • 天聖八年、慶暦元年など、賊徒討伐への協力や、暴風で貢物を失った使者への慰撫(銀千両を賜るなど)の記録が続く。熙寧年間、真臘・交阯との緊張が高まる中、占城使は交阯使と朝見の順序を分けるよう求め、朔日は東西に分かれ望日は交阯が垂拱殿、占城が紫宸殿で拝謁する取り決めがなされた。元祐七年、占城は交阯討伐への協力を申し出たが、朝廷は交阯の朝貢が絶えないことを理由に断った。

政和〜南宋期(真臘との抗争と滅亡)

  • 政和年間、王楊卜麻疊は金紫光禄大夫・廉白州刺史に任じられ、宣和元年には検校司空・懐遠軍節度・占城国王に進封された。建炎三年、郊恩により検校太傅を加えられた。紹興二十五年、子の鄒時䦨巴が嗣ぎ、乾道三年には子の鄒亜娜が大食国の財物を掠奪して献じた品が問題視され封爵は認められなかった。
  • 乾道七年、閩人の漂流民が占城に馬術を教えて真臘との戦いに勝利させた逸話、翌年に真臘が報復に来た事跡が記される。淳熙年間、占城が真臘に捕虜八十三人を返還し通商を求めたが許されず、淳熙四年には占城が真臘の都を襲撃した。しかし慶元以降、真臘が大挙して占城を討ち王を捕虜として連れ去り、占城はついに国を滅ぼされ、その地は真臘に併合された。