建国の経緯(高句麗から高麗へ)
- 高麗はもと高句驪といい、禹貢の九州では冀州に属した地。周代には箕子の国、漢代には玄菟郡で、遼東にあり扶餘の別種とされる。平壌城を国邑とし、漢魏以来しばしば朝貢する一方で辺境を侵すこともあった。隋の煬帝は二度出兵し、唐の太宗も親征したが、いずれも克てなかった。高宗の代に李勣がこれを征し、その城を抜いて郡県とした。
- 唐末、中原の混乱に乗じて自立し、後唐同光・天成年間には高氏が代々朝貢した。長興年間、王建が高氏の位を承け、玄菟州都督・大義軍使に任じられ高麗国王に封ぜられた。後晋天福年間にも朝貢が続き、開運二年に建が死に子の武が位を継いだ。後漢乾祐末に武が死に子の昭が国事を権知、後周広順元年に朝貢して特進検校太保・玄莵州都督大義軍使・高麗国王に任じられた。顕徳二年にはさらに検校太尉・太師を加えられた。
建隆〜太平興国年間(王昭・王伷の朝貢)
- 建隆三年、昭は広評侍郎李興祐らを遣わして朝貢。翌四年、宋は制を下し検校太師・高麗国王昭に食邑七千戸を加え、推誠順化保義功臣の号を賜った。その年九月、遣使の一行が渡海中に暴風で船が破れ七十余人が溺死する事故があり、朝廷は詔して労わった。開宝五年にも方物を献じ、進奉使内議侍郎徐熙・副使内奉卿崔鄴らに検校の官が加えられた。昭が卒し、子の伷が国事を権領。太宗即位後、伷は検校太傅を加えられ、大義軍を大順軍と改称された。伷は国人の金行成を国子監に留学させ、太平興国二年に行成は進士第三名に及第した。
- 太平興国七年、伷が卒し弟の治が国事を知る。治は金全らを遣わして金銀の器物・名馬・香薬などを献じ襲位を求め、検校太保・玄菟州都督・大順軍使・高麗国王に任じられた。
雍熙〜至道年間(王治の時代、契丹・女真との関係)
- 雍熙三年、太宗が契丹討伐の兵を出すにあたり、監察御史韓国華を遣わして高麗に協力を求める詔を伝えた。これに先立ち契丹が女真を伐った際、女真は高麗が契丹に通じて自分たちを害したと訴え、高麗使韓遂齢の入朝時に太宗はその告発文書を示した。治はこれを深く憂え、国華に対し、女真との攻防や契丹兵の侵入・報復の経緯を詳しく弁明し、自国は誠を守り二心なきことを訴えた。国華はこれを取り次ぎ、朝廷は事実関係を確認した上で高麗の弁明を認めた。
- 端拱元年、治は検校太尉を加えられ、崔罕・王彬ら留学生を国子監に送った。淳化元年、治に食邑千戸が加えられ、戸部郎中柴成務・兵部員外郎趙化成が使者として赴いたが、高麗は陰陽卜筮の禁忌にこだわって受詔を渋り、成務が書を送って戒めるとようやく拝命した。淳化二年、彦恭を遣わし大蔵経と御製の書を求め、これを賜った。
- 淳化四年、白思柔を遣わして謝恩。祕書丞陳靖・劉式が使者として赴き、留学生王彬・崔罕らの及第を報告する上表があった。進奉使白思柔の属吏張仁銓が上書して便宜を献じたため恐懼して帰国を渋った件は、陳靖らが引き取って帰国させ、治もその罪を赦すよう上表した。淳化五年、元郁を遣わして契丹侵攻への援軍を乞うたが、朝廷は用兵を控え詔で慰撫するにとどめた。この後、高麗は契丹の統制下に入り朝貢が中絶した。
- 治が卒し弟の誦が立つ。咸平三年、臣下の趙之遴が牙将朱仁紹を登州に遣わして朝廷の意向を探らせ、仁紹は高麗が契丹の羈縻を慕わず皇化を慕う実情を訴えた。咸平六年、誦は李宣古を遣わして朝謝し、契丹に燕薊の地を奪われて以後の攻撃を訴え、宋軍の牽制を求めた。誦が卒し弟の詢が国事を権知した。
大中祥符年間(王詢、契丹との六城攻防)
- 契丹は高麗を襲った後、境上に興州・鉄州・通州・龍州・亀州・郭州の六城を築いた。契丹が高麗を疑い六城の返還を求めたが詢が拒み、契丹は兵を挙げて城下に迫り宮室を焼き民を掠奪した。詢は昇羅州に避難し、契丹軍が退くと講和を求めたが、契丹はなお六城を口実に固執した。以後、高麗は六城守備に兵を割いた。
- 大中祥符三年、契丹が大挙して来攻したが、詢は女真と謀って伏兵で契丹軍をほぼ殲滅した。詢はさらに鴨緑江の東に城を築き来遠城と呼応させ、江に橋を架けて新城を守らせた。同七年、御事工部侍郎尹証古を遣わして金線織成の龍鳳鞍などを献じた。宋は登州に高麗使のための館を置いた。同八年には御事民官侍郎郭元が来貢し、高麗の都城・州県・風俗・気候・産物・文物制度(科挙・音楽・端午の鞦韆など)を詳しく語った。宋は元に詔書七函・襲衣・金帯・鞍馬などを賜った。
- 天禧年間・三年には貢使が海難に遭う事故もあったが、宋は存問し度海の糧を給して帰した。天禧五年、韓祚ら百七十九人が来朝し契丹との修好を報告、また陰陽地理書・聖恵方を求め賜った。この間、高麗人で宋の官に仕えた金行成の逸話(老親を思いつつ朝官として仕え、病没後に妻が二子を養い節を守った話)や、高麗信州出身で宋に仕えた康戩(字休祐)の事跡(契丹との戦、宋での官歴と善政)も記されている。
天聖〜熙寧年間(王徽=文王の時代)
- 誦の孫の徽が立ち文王と称される。中国との通交が四十三年絶えた後、熙寧二年、高麗の礼賓省が福建転運使羅拯に牒を送り、通好を求めた。これは大遼への従属に苦しみ、宋に頼りたいとの意向であった。神宗はこれを契丹牽制の好機と見て許し、金悌らの使者を迎えた。以後、往来は登州経由から明州経由に改められた。
- 元豊元年、安燾・陳睦が高麗に赴き、明州で建造した神舟(凌虚安済致遠・霊飛順済)で渡海。徽は病身ながら詔を拝し、医薬を求めた。桞洪の遣使では海上で貢物を失い自ら上章して罪を請うたが慰撫された。日本製の車を献じた際は貢物と同格に扱わないよう申し出るなど礼を厚くした。元豊六年、徽が三十八年の在位で卒した。治世は仁恕で東夷の良主とされたが、王女を臣下に嫁がせない旧習を残し、これを改めよと諫めた次子運を怒って国外に追放した逸話が伝わる。訃報に対し宋は明州で供養を修し、楊景畧・王舜封らを弔問に遣わした。
- 徽の子勲が継いで百日で卒し、弟の運(宣王)が立った。運は仁厚で学問を好み、賈客の書籍を渇望した逸話がある。哲宗の代には金上琦を遣わして各種書籍を求めたが、文苑英華のみが賜られた。運の没後、子の堯(懐王)が幼くして立ったが病により統治できず、叔父の煕(鶏林公)が摂政し、堯が卒すと煕が立った。
元祐〜政和年間(王熙〈顒〉・王俁の時代)
- 元祐四年、王子義天が僧壽介を杭州に遣わし亡僧を祭った際、知州蘇軾がその贈物を却下した逸話がある(詳細は蘇軾伝に記載)。煕は遼主の諱を避けて顒と改名。貪欲な性格で商人の利を奪ったと記される。煕は宋への通使を再開し、黄帝鍼経を献じ多くの書籍を求めたが、蘇軾は「高麗の入貢に利なく害多し」として書籍の売却制限を主張、金箔のみ許可された。
- 顒の没後、子の俁が立ち貢使が絶えず往来し、士子を太学に入れる制度も設けられた。政和年間、使者の待遇が国信礼へ格上げされ、大晟燕楽の楽器なども賜られた。宣和四年、俁が卒し、諸弟の王位継承争いの末、宰相李資深が俁の子楷を擁立、宋は路允廸・傅墨卿を遣わして弔問した。俁は生前医者を求め、二年滞在した医師が帰国時に「朝廷が遼討伐に用兵しようとしているが、遼は兄弟の国であり存続させることが辺境の防波堤になる、女真は狼虎のようなもので交わってはならない」と楷に伝えるよう託した逸話が記される。
靖康〜紹興年間(金の圧迫と南宋との関係断絶)
- 欽宗即位後、御史胡舜陟は「高麗は五十年にわたり国家を疲弊させ、政和以来毎年使者が淮浙を苦しめている。かつて契丹に臣従し今は金に臣従するだろうから、通交を止めるべき」と上言し、朝廷は明州で高麗の貢物のみ受け取り使者を留めた。以後、高麗は契丹(後に金)の正朔を奉じつつ宋にも朝貢を続けたが、契丹からは「高麗は我が奴僕」と侮られ、貢使は倨傲な扱いを受けたとされる。
- 高宗即位後、金と高麗の連携を懸念し胡蠡を高麗国使として遣わし探らせた。建炎二年、浙東路馬歩軍都総管楊応誠は「高麗経由で女真に至る道は近い」として自ら使者となり二聖(徽宗・欽宗)の迎還を図る策を上言、朝廷はこれを許したが、浙東帥臣翟汝文は「応誠は身勝手な策で、高麗が金に通じて江南の虚実を探られる恐れがある」と反対した。応誠は高麗に赴いたが、王楷は「大朝には山東路がある、なぜ我が国の道を借りるのか」と難色を示し、門下侍郎傅佾は翟汝文の懸念どおりの反論をした。結局、楷は受詔を拒み応誠は成果なく帰国、上は激怒したが、尚書右丞朱勝非・右僕射黄潜善らの諫めで矛を収めた。楷は後に上表して謝罪した。
- 紹興元年以降、高麗の入貢を巡り警戒論(禮部侍郎栁約の屯兵論など)が相次ぎ、実際に入貢が中止されることもあった。紹興二年、崔惟清・沈起らが入貢したが、金の間者ではとの疑いから厳重に対応された。紹興六年には高麗使者を「金の間諜かもしれない」として銀帛を与えてすぐに帰した。紹興三十二年、殿中侍御史吴芾は再び疑念を表し入貢を止めさせた。隆興二年以降、両国の使命はついに絶えた。慶元年間には商人の銅銭持ち出しを禁じて事実上の通交断絶を図った。
高麗との往来の実務・地理
- 高麗使の接待には多額の費用がかかり、蘇軾がかつて「高麗の入貢には五利なく五害あり」と論じた背景が記される。かつては登州・莱州経由であったが、南宋期には明州経由の航路が用いられ、海上の危険(暗礁・黒風など)も詳しく述べられる。
- 国土は東西二千里・南北五百里、西北は鴨緑江をもって契丹と境を接する。開州(開城府)を中心に三京(開城・西京平壌・東京慶州相当)・四府・八牧・百十八郡・三百九十鎮・三千七百余の州島からなり、人口は男女二百十万口、兵・民・僧が各三分の一とされる。気候は寒冷で松柏を産し、稲・黍・麻・麦はあるが秫(もちきび)はなく、粳米で酒を醸す。絹は乏しく麻紵を多く用いる。
- 王は牛車に乗り出行、護国仁王経を掲げて先導させる。官名・階勲は中国に似る。柳・崔・金・李の四姓が貴種とされ、宦官はなく世族の子弟が内侍・六衛に任じられる。国子監に六千人の学生があり、貢士は土貢・郷貢・賓貢の三等に分かれ、王自ら詩賦論の重試を行う制度もある。
- 兵制は十六歳以上の男子を軍籍に入れ、三年交代で辺境を守らせる。土地は私田がなく人口に応じて授けられる。貨幣は熙寧以降に鋳造が始まり、海東通宝・重宝・三韓通宝の三種があるが実際にはあまり流通しなかった。
- 崇仏の風があり、王子の一人が僧となる慣習、隠陽・鬼神を信じ病人を見舞わず、死者を野に晒す貧者の風習、十月の八関斎という盛大な祭天儀礼などが記される。刑罰は逆罪・父母への罵倒のみ斬とし、他は杖刑にとどまる比較的寛やかな法制であった。医術は乏しく、王俁の代に宋へ医師派遣を求めて初めて技術が伝わったとされる。
- 明州定海から便風で三日、さらに五日で墨山に至り、島嶼の間を縫って七日で礼成江に至る。江中の急水門は最も険しい難所とされ、さらに三日で碧瀾亭に上陸し、四十余里の山道を経て高麗の都に至るとされる。