宋史卷四百八十三 列傳第二百四十二 陳氏
泉州仙遊出身の陳洪進(?–985年)。留從效の部将として台頭し、留氏の後継争いに乗じて張漢思を廃して自立、漳泉二州を領して南唐、のち宋に款を通じた。太宗の代に土地を宋へ献じて武寧軍節度使に任じられ、子の文顕・文顥・文顗・文頊も各地の刺史・団練使等を歴任した。
年表(13件)
- 晋の開運元年944年洪進が延政の本州馬歩行軍都校に任じられる
- 建隆四年963年洪進が使者を遣わして朝貢し冬にはさらに貢物を送る
- 乾徳二年964年清源軍が平海軍と改称され洪進が節度・観察使に任じられる
- 開宝四年971年弟の銛が漳州刺史を授かり入貢の途上で卒する
- 雍熙元年984年岐国公に進封される
- 雍熙二年985年洪進が病により卒する(72歳)
- 乾徳初年文顕が平海軍節度副使となる
- 咸平初年御史中丞李惟清の弾劾を受ける
- 端拱初年文顥が同州の知州に出される
- 咸平初年文顥が耀州の知州となる
- 大中祥符初年文顥が東封の議に際し供擬を整え詔で褒美される
- 景徳中文顗が光州に換えられる
- 淳化三年992年文頊が卒する(35歳)
陳洪進
- 陳洪進は泉州仙遊の人。幼くして壮節があり書をよく読み兵法を習った。長じて材勇で知られ兵籍に隷し汀州攻めで先登し副兵馬使に補された。留從效に従い黄紹頗を殺した際、紹頗の首を建州に送り援軍を請う際、道が険阻で賊が盛んなことを部下は恐れたが、洪進は事が長引けば変事が生じることを恐れ、自ら赴くことを願い出た。尤渓に至ると賊数千が道を塞いだが、洪進は「福州も泉州もすでに義師に襲われている、そなたたちは今誰のために守っているのか」と欺き、紹頗の首を示して「これを建州に送り嗣君を迎えて帰国させる、そなたたちはどこへ行くつもりか」と言うと、賊はついに潰え渠帥数人は皆命に従った。
- 洪進は建州に至り、延政は大いに喜び本州馬歩行軍都校に任じた。この歳は晋の開運元年(944年)である。これより漳州で程贇が殺され延政の従子・継成が刺史に迎えられ、許文稹は汀州をもって降った。連重遇が朱文進を殺しその首を建州に伝えると、福州人はまた重遇を殺し、延政はついに洪進を泉州に帰らせた。三年、李景が建州を陥落させ延政は江南に入った。翌年、泉州の留從效が王継勲を拉致して江南に降ると、李景は從效を清源軍節度に、洪進を統軍使にして副使の張漢思とともに兵柄を領させ、たびたび戦功を立てた。
- 從效が卒すると、幼い子の紹鎡が留務を執って一月余、洪進は紹鎡が越人を招き入れて叛乱を企てていると誣告し江南に送らせた。副使の張漢思を推して留後とし、自らはその副使となった。漢思は年老いて醇謹で軍務を治める能力がなく、事はすべて洪進が決した。漢思の子たちはみな衙将であったが不平を抱き、洪進もまた彼らを害しようと図り、漢思もその専横を憂えていた。翌年夏四月、漢思は将吏を大いに饗し内斎に伏兵を置いて洪進を害そうとしたが、酒宴の最中に地が大きく震え棟宇が傾こうとし、座立の者は身を支えられなくなった。同謀者はこれを洪進に告げ、洪進は急いで去り衆は驚愕して散った。
- 漢思の企ては失敗し、洪進の先制を恐れて厳しく兵を備えた。洪進の子・文顕・文顥はともに指揮使であり所部を率いて漢思を撃とうとしたが洪進はこれを許さなかった。ある日、洪進は袖に大鎖を入れ二子と常服で歩いて府中に入ると、直兵数百人がみな叱られて去った。漢思は内斎にいたが、洪進はその門を鎖し人を遣って「郡中の軍吏が洪進に留務を知ることを請うており、衆情に逆らえない。印を授けるべきだ」と告げると、漢思は恐れおののき為す術もなく門の隙間から出て印を洪進に渡した。
- 洪進は急いで将校・吏士を召し「漢思は昏耄で政をなせず、われに印を授けわが郡事に臨むよう請うた」と告げ、将吏は皆祝賀した。同日、漢思を別邸に移し兵で警護させ、江南の李煜に命を請う使者を送った。李煜は洪進を清源軍節度・泉南等州観察使とした。当時、太祖は澤・潞を平定し揚州を取り荆湖を降して威は四海に振るっていた。洪進は大いに懼れ衙将の魏仁済を間道に遣わし表を上げて「清源軍節度副使を自ら補し泉南等州軍府事を権知したこと、張漢思は老耄で衆を制することができず、臣が州事を領して謹んで朝旨に従いたい」と申し出た。
- 太祖は通事舎人の王班に詔を持たせ撫諭させ、李煜への詔で「泉州の陳洪進が使者を送り衆に推されて州事を総領したことを朝廷に伝え、命を聞くことは大いに嘉すべきだが、泉州は昔より貴殿に附麗し撫綏を受けてきたと聞く。しかし変詐が多く主帥をしばしば移すので、地が遠く制御が及ばないのを恐れる。朕は書軌大同・恩威遠被の心をもって、その款附を嘉して詔書をすでに降した。これはただ遠俗の安寧を慮ってのことであり、彼我を分けて論じているわけではない。よく理解してほしい」と伝えた。
- 李煜は「洪進は詐が多く首鼠両端、誠に聴くに値しない」と上言したが、太祖はさらに詔してこれを諭した。李煜はついに聴命し、建隆四年(963年)、洪進は使者を遣わし朝貢し、冬にはさらに白金万両・乳香・茶薬万斤を貢いだ。李煜はさらに洪進への恩命の停止を上言したが太祖はこれをまた諭した。乾徳二年(964年)、清源軍を平海軍と改め、洪進に節度・泉漳等州観察使・検校太傅を授け「推誠順化功臣」の号を賜り印を鋳造して与えた。文顕を節度副使、文顥を漳州刺史とした。この年夏、丁家艱(父母の喪)に遭ったが起復し洪進は毎年の修貢を続けた。朝廷はしばしば民から厚く取り立て、財産百万以上の家には差役の代わりに銭を差し入れさせる制度が試みられた。協律・奉礼郎はその丁役を免除された。
- 江南平定後、呉越王が来朝すると、洪進は不安になり子の文顥を遣わし乳香万斤・象牙三千斤・龍脳香五斤を貢いだ。太祖は詔してこれを召したので入覲することとしたが、南劔州に至った際に太祖の崩を聞き、鎮に帰って発哀した。太宗が即位すると検校太師を加え、翌年四月、洪進は来朝、朝廷は翰林使の程徳玄を宿州に遣わし出迎えさせた。至ると銭千万・白金万両・絹万匹を賜り礼遇は手厚く、さらに食邑を増した。子の文顥を団練使、文顗・文頊はともに刺史とした。
- 洪進はここで上言し「峻極なるものは山であるが低地でもこれを避けず、私心なきものは日であるが盆を覆っても必ず照らす。ただ遐僻の地では聖化がなお隔たっている。願わくは所領の地を献じ、この由なきかたよった願いを申し上げたい。臣の領する両郡は僻遠の一隅に在り、浙右がまだ金陵の偏霸に帰する前より、崎嶇千里の地に散在する万余の兵を疲弊させながら、はるかに朝廷を仰ぎ望みつつも、間道を通じて遠く貢を送り事大の誠を尽くしてきた。太祖皇帝は軍の名誉と節旄を賜り一方の統治を任せ、三代にわたる恩寵を延べてくださり、祖父は漏泉の恩沢を受け子弟は封土の栄を享受し、藩鎮の寵を得ながらも朝見の儀を果たせずにいるうちに、江表が平定され先皇が崩御なされた。今、皇帝陛下がその偉業を継がれるにあたり、臣は遠く海嶠を辞して天墀に入覲し、間近に龍顔を拝し重ねて恩沢を賜った。願わくはただ大願として、所領の漳泉両郡を有司に献じ、辺境の地を内地とし、太平の世を見せていただきたい。伏して望むらくは、臣に近地の別鎮を授け、子の文顕らにも早く朝命を賜り、牙校・賓僚もそれぞれの願いに応じて恩沢を蒙らせてほしい」と述べた。
- 太宗はこれを優詔で嘉納し、洪進を武寧軍節度・同平章事とし京師に留め奉朝請とし、子は皆近郡を授かり、白金万両を賜り宅を購わせた。翌年、太原平定に従い、六年、杞国公に封じ、雍熙元年(984年)岐国公に進封した。洪進は年老いて富貴も極まり致仕を求めると優詔でその朝請を免じた。二年(985年)、病により卒。年七十二。廃朝二日。中書令を贈られ諡は「忠順」。中使が葬事を護喪し官が給した。
- 洪進が泉州にいた時、昼に蒼鶴が内斎前に舞い降り洪進に喉を向けたので見ると魚の骨が喉に刺さっており、手でこれを取り除くと魚はなお生きていた。鶴は数日馴れて斎中にとどまり後に去り、人々はこれを異とした。洪進の弟の銛は初め泉州都指揮使であったが、開宝四年(971年)漳州刺史を授かり入貢のため宿州に至って卒した。子の文璉は供奉官・閤門祗候となった。
文顕
- 文顕、字は仲達。洪進が漳泉節制の際、左神機指揮使に署され泉州馬歩軍使・都督右軍押衙に遷った。乾徳初年、朝命により平海軍節度副使となり累加して検校太保に至った。洪進が帰朝すると文顕は通州団練使を授かり泉州の知州となったが、まもなく交代して還り、太宗の太原征伐の際は行在で朝じた。のち青・斉・廬・寿・西京水南・北陜州四州都巡検使に出された。
- 文顕は諸弟と不仲で、咸平初年、御史中丞の李惟清が「文顕らは並んで方面の符竹を分かち一門は栄盛して当代に並ぶものがないが、亡父の墳の土がまだ乾かぬうちに私邸の風紀が大いに乱れ、兄弟が骨肉の仇として訴訟を起こし、官俸・私蔵を同居しながら分けて久しく赦されても人言が積もっている。文顕が訴訟の端を起こしたのは律文の尊長の座にあたる、散秩に処すことで浮俗を戒めるべきだ」と抗疏した。
- 詔には「文顕らは大いに名教を傷つけ本来なら刑を科すべきだが、父の忠勲を思って捨て置くに忍びず、誡諭を賜って改過を許す。もし悛らざれば簡書に照らして正すべきである」と述べ、御史台にこれを告諭させた。文顕は病により通許鎮都監に改められ、六年に卒。年六十五。子の宗憲は虞部員外郎を歴任し西京作坊使、宗元は殿中丞となった。
文顥
- 文顥、初め泉州右軍散兵馬使・衙内都指揮使、まもなく漳州を権知した。朝命により漳州刺史を七年にわたり務め、泉州に還って行軍司馬の官署に就いた。開宝末、江南平定に際し洪進の第三子・文顗が入貢を命じられたが行きたがらず、代わりに文顥が京師に至り、父の入覲を待って留まりたい旨を陳べた。太祖はこれを嘉し、洪進の帰朝後、文顥は房州刺史を授けられ、房州が節鎮に昇格すると康州刺史に換えられた。端拱初年、同州の知州に出され、従事の銭若水がこれに厚く仕え、文顥もこれに礼を尽くし郡政を委ねた。
- 咸平初年、耀州の知州となり、さらに徐州に移り、刑の運用を誤って左武衛大将軍・知漣水軍に貶められたが、上(帝)はその父の納土効順を念じ、再び康州刺史とし京師に留めた。大中祥符初年、東封の議に際し濮州が馳道の通過地となるため知州として供擬を整えるよう命じられ勤めを果たしたため詔で褒美された。駕が至った際には召見され慰労を賜り、衡州刺史に改められ内地刺史の俸給を特に給された。まもなく交代し、老疾により致仕を重ねて求め、詔で朝謁を免じられ歳給の公費と月廩は従来通りとされた。六年に卒。年七十二。
文顗
- 文顗、初め泉州衙内都指揮使、漳州の知州となる。洪進の帰朝後、滁州刺史を授かり、そのまま知州を続けたが、まもなく都に召還され奉朝請となった。景徳中、光州に換えられ、久しく官職に就かずにいたが和州団練使を領し、海・濮・濰・沂・黄五州、信陽軍の知州を歴任したが、いずれも功績は挙げられなかった。卒。年七十一。子の宗綬は大理評事に録され、孫の永弼・永昇は三班借職、次子の宗纘は太子中舍となった。
文頊
- 文頊はもと文顕の子。洪進が泉州にいた頃、ある相者が「一門の受ける禄は万石に至るであろう」と語り、当時洪進と三人の子はみな州郡を領していたが、文頊が生まれた頃、洪進はその言葉に応じようと文頊を自らの子とした。初め泉州衙内都校に補され、さらに衙内都監となり、朝命により順州刺史を領した。帰朝後は登州刺史となり、滄・棣に盗賊が出没すると巡検使に任じられた。ちょうど禁軍大校の趙延漙が登州団練使に任じられると、文頊は舒州刺史に改められた。淳化三年(992年)卒。年三十五。文頊は書をよく学び画もよくした。子の宗絳は殿中丞となった。