宋史卷四百八十四 列傳第二百四十三 韓通

三臣伝を立てた理由

  • 『五代史記』に「唐六臣伝」があるのは譏りを示すためである。本書が「周三臣」を立てるのは、その名は似ているがその意義は異なる。同じ点を求めるならば、正名義・扶綱常にある。韓通は太祖と肩を並べて後周に仕え、宋がまだ禅譲を受けていない間に死んだ。もし彼が本書に伝を立てられなければ、忠義の志はどこに託されようか。
  • 李筠・李重進は旧史では「叛」と記されるが、叛か否かは容易に言えることではない。周の遺民は殷の忠臣ではないと言えようか。孔子は『書』を定めるにあたりその旧称を改めなかった。ある人は「この三人はかつて唐・晋・漢に仕えた」と言うが、智氏に仕えた豫譲はどうであろうか。よって「周三臣伝」を作る。

韓通

出自と後周への出仕

  • 韓通は并州太原の人。弱冠にして募に応じ勇力で知られ、騎軍隊長に補された。晋の開運末年、漢祖(劉知遠)が太原で挙兵すると通は帳下に置かれ、まもなく漢祖に従い東京(開封)に至り、累遷して軍校となった。漢祖が禁兵を典掌すると通は衙隊副指揮使として杜重威討伐に従い、銀青階・検校国子祭酒を得た。漢祖の建国後は検校左僕射を加えられ、隠帝の即位に伴い奉国指揮使に遷った。
  • 乾祐初年、周祖(郭威)が枢密使として河中討伐の兵を統べた際、通の謹厚さを知りこれを随従させ、先登して身に六創を被り、その功で本軍都虞候に遷った。周祖が大名に鎮した際、通を天雄軍馬歩軍都校として奏し心腹として委ね、汴に入る際にも通は大いに力を尽くした。奉国左第六軍都校を授かり雷州刺史を領し、広順初年には虎捷右廂都校となり左廂に遷り孟州巡検を充て、永・睦二州防禦使を継領した。

河北の経略

  • 周祖が兗州に親征する際、通は在京右廂都巡検とされた。この頃、河が氾濫して河陰城を浸したため、通に廣鋭卒千二百を率いさせ汴口を浚わせ、また河陰城を築かせ営壁を創設させた。まもなく保義軍節度観察留後を拝し、周祖の親郊に際し正式に節度使を授けられた。并州の劉崇が南侵すると、通は河中の王彦超の副として晋州道から出て撃ったが高平で敗れ、通は太原北面行営部署として地道戦法で城を攻めた。まもなく班師し曹州に移鎮し検校太保となった。
  • 世宗の即位後、深冀の間に胡蘆河があり東西数百里に渡っていたが、堤を高く保たねば契丹の侵入を防げなかった。顕徳二年(955年)、通と王彦超に浚治を命じたが、工事が未完了のうちに契丹が到来したため、通は出兵して迎撃し退けた。ついに李晏口を城として静安軍とし、四十日で完成させ、さらに束鹿・鼓城を城とし祈州も修築した。当時大戦の後で遺骸が野に散らばっていたため、通はこれを収めて葬り万人塚とした。さらに博野・安平を城とし、深・定の間を往来し夜は古寺に宿り昼は荊棘を披いて安平で百余騎を率い作業を督励した。あるとき契丹の騎数百が突然到来したが、通は麾下を率いて戦い、日暮れに大風雨が起こり契丹は解いて去り、十余騎を捕らえた。さらに百八橋鎮と武強県を城とし、いずれも旬日で完成させ帰朝した。
  • 秦鳳攻めに際し、通は西南面行営馬歩軍都虞候となり大散関に入り鳳州を包囲、兵を分けて固鎮を城とし蜀の餉道を断った。まもなく鳳州を抜き、その功で侍衛馬歩軍都虞候を授けられた。世宗の淮南征討では通は京城都巡検とされ、世宗が都城が狭小であるとして畿甸の民に新城を築かせ、旧城の街道も広げさせた。左龍武統軍の薛可信、右衛上将軍の史佺、右監門衛上将軍の蓋万、右羽林将軍の康彦環にそれぞれ四面を分督させ、通はその役を総領した。功が未だ成らないうちに世宗は淮上に行幸し、通を在京内外都巡検・権点検侍衛司として留めた。この役は三年を期していたが、わずか半年で完成した。三年、秦鳳の功が改めて評価され忠武軍節度に改領、検校太傅を加えられ、さらに侍衛馬歩軍都虞候に改められた。世宗が寿春に行幸した際は京城内外都巡検となり、淮南平定後は帰徳軍節度となった。
  • 六年(959年)春、通に河北を巡行し河堤を按行するよう詔があり、徐・宿・宋・単等州の民を発して汴渠数百里を浚わせた。世宗が北征を企てると、通は高懐徳・張鐸とともに先んじて滄州に赴くよう命じられ、襲衣・金帯・鞍馬・器帛を賜られ、兵を率いて契丹領の乾寧軍の南に入った。まもなく陸路都部署となり殿前都虞候の石守信が副となった。また通に契丹北辺を巡らせ浮陽から淤口浦まで坊三十六を壊させ、瀛・莫を通じさせた。当初、益津関を克し霸州とすると、濵・棣の民数千を城のために動員し、通がその役を監督した。師の帰還後、検校太尉・同平章事・侍衛親軍馬歩軍副都指揮使を充てた。恭帝が即位すると鄆州に移鎮した。

陳橋の変と最期

  • 太祖が詔を奉じ北征すると、陳橋に至った際に諸軍に推戴された。通は殿閣にあってその変事を聞き慌てて帰邸しようとしたところ、軍校の王彦昇が道で通に遭遇し馬を駆って追い、通が邸に馳せ入り門を閉じきる前に彦昇に殺され、妻子も皆死んだ。
  • 太祖は通の死を聞き彦昇の専殺に怒ったが、開国したばかりのため隠忍してあえて罪に問わなかった。詔を下して「王朝の交替は王者が期運に応じるところで、危難に臨んで苟且にしないのが人臣が節を全うする所以である。故周の天平軍節度・検校太尉・同中書門下平章事・侍衛親軍馬歩軍副指揮使韓通は戎伍から身を興し前朝に仕え、輝かしい功を立て勇爵を歴任し、早くから霸府に交わりを結び、和門でともに歩みを重ね、艱険をともにし情誼は篤かった。朕は天の眷佑と百姓の推戴を受けたが、彼の元勲を思い殊寵を加えようとした矢先、突然に遇害したことを憮然として悼む。中書令を贈り礼をもって収葬させ、高品の梁令珍を遣わし喪事を護らせよ」と述べた。
  • 通は性が剛で謀略に乏しく、しばしば人に逆らう言葉を発し肆に威虐を振るったため、人々は彼を「韓瞠眼」と呼んだ。その子は智略に富んでいたが幼くして傴(背の曲がった)病があり人は「槖駞児」と呼んだ。この子は太祖に人望があることを見抜き、通に早く対処するよう常に勧めたが、通は聞き入れなかった。のち太祖が開宝寺に行幸した際、通とその子の像が壁に描かれているのを見つけ、直ちにこれを取り除くよう命じた。