王昭遠
- 益州成都の人。幼くして孤貧、13歳で東郭の僧智諲に童子として仕え、知祥が蜀に鎮した際府署で僧を饗した折に智諲に従って入り、昶が学んでいた頃に知祥が昭遠の聡慧を見て昶の側近とした。昶の即位後、捲簾使・茶酒庫使となり、樞密使王処回が梓州知事として出ると、昶は樞密の権が重すぎることを理由に昭遠と普豊庫使高延昭を通奏使知樞密院事とし機務を委ね、府庫財帛も自由にさせた。眉州刺史を加えられ永平軍節度として出たが数か月で昭武の李継勲の目疾を理由に節を譲り、䕫州寧江軍節度、山南西道節度同平章事を兼ねた(昶母はかねて昭遠を用いるべきでないと諫めていたが昶は聞かなかった)。入朝の際、通奏職を辞し左街使張仁貴を副使知樞密として代えた。兵書を好み方略を自任していたが、宋師侵入時に趙崇韜と共に拒戦を命じられ、成都出発時には「今回の遠征は敵を破るだけでなく2、3万の兵で中原を掌中に収める」と豪語し鉄如意を手に自らを諸葛亮になぞらえたが、漢源で剣門陥落を聞くと股が震え、崇韜が布陣する間も胡床に座ったまま立てず、崇韜の敗北を見て甲冑を脱ぎ東川へ逃げ倉舎に隠れて泣き伏し、羅隠の詩「運去りて英雄自由ならず」を誦するばかりで、まもなく捕らえられ闕下に送られた。太祖は釈放し左領軍衞大将軍とし、後に交阯への使者として開寶8年に卒した。