宋史卷四百七十九 列傳第二百三十八 韓保正

韓保正

  • 字は永吉、潞州長子の人。父昭運が知祥に従い蜀に入り珍州刺史となった。保正は知祥の押衙から豊徳庫使兼廣義庫使・眉州刺史・樞密副使・漢州刺史・宣徽北院使を歴任、鳳翔の侯益が帰款した際は北路行営都監として岐陽を図ったが、晋昌の趙贊も蜀への帰順を図ったところ王景崇に迫られて逃亡、蜀将李廷珪も撤退、保正は張虔釗・龎福誠と協議がまとまらず成都へ引き返した。雄武節度として新関から隴州へ出兵したが漢兵の固守に阻まれ空しく帰った。広政14年、部下の楊虔範に不法を訴えられたが昶は虔範を斬り保正を不問とした。䕫州寧江軍節度・宣徽南院使・山南節度左衞聖歩軍節度指揮使・奉鸞肅衞馬歩軍都指揮使を歴任した。宋の荊南平定を機に峡路都指揮制置使として䕫州に屯し辺務を計画、検校太尉兼侍中となったが、太祖の討伐開始に際し山南節度興元武定緣邊諸砦屯駐都指揮使として興元を守るも王全斌軍に興元を放棄し西県に退き、包囲に対し臆して出撃せず麾下を率いて逃走、史延徳に捕らえられ全斌のもとへ送られた。太祖は殿上で慰問し袍笏・金帯・茵褥・鞍勒馬・甲第を賜ったが官職を授かる前に卒し、右千牛衞上将軍を贈られた。