宋史卷四百七十四 列傳第二百三十三 賈似道

理宗の寵愛と初期の官歴

  • 賈似道は字を師憲、台州の人。制置使・賈渉の子。若くして落魄し遊博に耽り操行を修めなかったが、父の蔭で嘉興司倉に補された。姉が入宮して理宗の寵を得貴妃となると廷対に召され、妃が内で薬湯を給仕して支えた。太常丞・軍器監に進むが寵を恃み放縦、日夜妓家に遊び湖上で遊興を重ねた。理宗が夜、西湖の異常な灯火を見て「これは必ず似道だ」と語ったところ果たしてその通りであった。京尹の史巌之に戒めさせようとしたが、巌之は「似道は少年の気習があるが材は大用に堪える」と評した。
  • 知澧州に出た後、淳祐元年、湖廣総領に改まり戸部侍郎を加えられる。宝章閣直学士・沿江制置副使・知江州兼江西路安撫使、一年で京湖制置使兼知江陵府に累遷し、調度・賞罰を便宜施行できる権限を得た。宝章閣学士・京湖安撫制置大使、端明殿学士・両淮鎮撫と歴任し、三十余歳で威権が日増しに盛んになった。台諫が二部将のことで論じると自ら求職辞退を試み、孫子秀の淮東総領人事も似道の意向で妨げられるなど、丞相の董槐すらこれを制止できなかった。

鄂州の役と宰相就任

  • 開慶初、憲宗皇帝の親征と世祖皇帝(当時皇弟)の鄂州攻撃、烏蘭哈達の雲南から交阯・邕州・広西・湖南への進出で理宗は恐懼し、趙葵を信州に、似道を漢陽に配して援鄂の軍を編成、似道は右丞相を拝命し漢陽から入って鄂の再築・再破の戦いで髙達らの奮戦を助けた。十一月の攻城戦では死傷者一万三千人に及び、似道は宋京を遣わして称臣・輸嵗幣を密奏したが受け入れられなかった。
  • 憲宗皇帝の崩御(釣魚山)を機に金人は撤退し、似道は再び和議を進めて許され、大元軍は北帰した。翌年正月、劉整の計を用いて浮橋を断ち敵百七十を殺し、「肅清」の表を上げて再造の功ありとされ少傅・右丞相として召還、百官が郊迎するなど文彦博の故事に倣う礼遇を受けた。丞相の呉潜が似道を黄州に移すよう画策したことなどから似道は潜を恨み、太子擁立問題での対立もあって沈炎に潜を弾劾させ、循州に貶して党を悉く逐った。

専権と公田法

  • 髙達は圍中での武勇を恃んだが似道は毎度戦を強要して労を惜しませなかった。呂文徳は似道に諂い他将を威圧した。曹世雄・向士璧は軍中の会計不正を理由に貶され、似道は帝に達を誅せよと言い続けたが帝は達の功を知り従わなかった。世祖皇帝が即位し郝経らが和議を求めて来ると、似道は「福華編」を撰させて鄂の功を頌させ、密かに淮東制置司に郝経らを拘束させた。理宗の晩年は董宋臣・盧允昇が聚歛して媚びていたが、似道はこれらを逐って外戚の監司郡守就任を禁じ権を握り、進用羣小が先朝の旧法を改変した。
  • 買公田の法で浙西の田を強制的に低額で買収し、多くは度牒・告身で代替、吏の横暴で民は大いに乱れた。提領の劉良貴が反対者を弾劾し、有司は買田の功を競って七、八斗を一石と偽って記録するなどの不正が横行した。楮幣(紙幣)の下落を銀関で調整するなどの施策も物価高騰を招いた。彗星の出現に伴い台諫・布衣が公田法の非を上書したが、似道は力弁し辞職を願い出るも帝は「公田は君の建議で朕も一度は反対したが、今は公私共に潤い一年の軍餉を賄えている」と慰留した。太学生の蕭規・葉李らの上書も弾圧された。
  • 推排法(税制強化)も実施され江南の地は尺寸まで課税された。理宗が崩じ度宗が立つと似道を「師臣」と呼び名を呼ばず朝臣も「周公」と称した。理宗の埋葬後、官を棄てて去ろうとする素振りを見せ、呂文徳の北兵攻撃の急報に朝廷が動揺すると帝と太后は詔を書いて似道を復させた。似道は太師拝命や節度使の授与を「粗人の極致」と拒みつつ節を出させ、また撤回するなど気まぐれな振る舞いを見せた。

襄陽陥落と専恣の極み

  • 大師平章軍国重事に進み、一月に三度経筵に赴くのみで、実務は葛嶺の私邸に招いた館客の廖瑩中・堂吏の翁応龍に決させ、宰執は署名するだけの存在となった。台諫の弾劾や京尹・畿漕の人事も似道の関知なしには動かず、李芾・文天祥・陳文龍らの忤逆者は生涯屏棄された。賄賂は横行し、帥閫・監司・郡守を求める者の献物が絶えなかった。
  • 六年、朝見でも拝礼を免除され帝が自ら送迎するなど異例の礼遇を受けたが、襄陽が金に包囲される中、似道は葛嶺で楼閣亭榭を造営し美色の宮人・娼尼を妾とし博打に興じ、他人が第に入るのを厳しく拒んだ。寳玩を偏愛し、余玠の玉帯を殉葬品から掘り出させるなど強欲さを示した。明堂の礼で雨天のため輅(天子の車)を用いず逍遥輦に乗ろうとした際、胡貴嬪の父・顕祖の讒言に激怒し罷政を求めるなど、専横は極みに達した。
  • 襄陽への援軍要請にも「呂氏(呂文徳)を援ければ趙氏が危うくなる」として応じず、事実無根の捷報を流して援軍派遣を回避させた。襄陽が陥落すると「先に行辺を請うたが先帝が許さなかった、早く聴けばここまでにならなかった」と弁明。母の胡氏が薨じた際には天子の鹵簿で葬るという異例の厚遇を受けた。度宗の崩御後、大兵が鄂を破ると太学生も似道の出陣を求め、都督府をようやく開くが劉整を憚って動かず、劉整の死後「天助だ」と喜び出師した。

魯港の敗戦と誅殺

  • 精兵を率いて安吉に至った際、乗船が座礁して動けなくなる不吉な兆しがあり、蕪湖では俘虜を送り返して丞相バヤン(巴延)に嵗幣・称臣を請うたが拒否された。夏貴が合肥から来会し「宋の暦運は三百二十年」と記した書を示し似道は俯首した。丁家洲で孫虎臣の軍が敗れ、似道は「虎臣が敗れた」と慌てふためき、夏貴も「兵の士気は既に地に落ちた、私は淮西を死守するので陛下は揚州に逃れよ」と告げて舟を解いた。似道も虎臣と共に単舸で揚州に奔った。
  • 敗兵が江を蔽って下り、似道が招いても集まらず、罵倒される事態となった。陳宜中は太后に似道の誅殺を求めたが太后は「勤労三朝の大臣を一朝の罪で処すことはできない」として平章都督を罷め祠官とするに留めた。四月、髙斯得が誅殺を求めるも似道自ら保全を乞い、三官を削られるに留まって揚州に留まり続けた。五月、王爚が「忠にも孝にも死ねぬ」と論じ、太皇太后は帰喪を命じた。七月、黄鏞・王応麟が移送を求め、王爚は太后に「本朝の権臣で似道ほどの禍を残した者はいない」と迫った。
  • 婺州、次いで建寧府へ移されるが、婺人・建寧の民は激しく拒絶反応を示し、朱熹ゆかりの建寧では子供すら嫌悪を示した。国子司業の方応発、中書舎人院の王応麟、給事中の黄鏞、侍御史の陳文龍らが竄逐を求め続け、ついに髙州団練使・循州安置に落とされた。籍没された家財に対し、福王・与芮が私怨から刺客を募り、県尉の鄭虎臣が志願した。
  • 虎臣は途上、似道の侍妾を悉く追い払い、寶玉を奪い轎の蓋を撤去して炎天下を行かせ、轎夫に杭州の歌をやかせて似道を辱め、呉潜がかつて南行の際に題した文字の前で「賈団練、呉丞相はどうしてここまで至ったのか」と詰問した。似道は答えられなかった。王爚らは似道の家財に反逆の兆ありと上奏し斬首を求めたが、詔が届く前の八月、漳州木綿菴で虎臣は自殺を勧めるが似道は「太皇太后は死なせぬと約束した」と拒み、詔が死を命じると虎臣は「天下のために似道を殺す、死んでも悔いはない」と述べ、拉致して殺害した。