序(叛臣傳を立てる趣旨)
- 宋がその政を失うと金人はこれに乗じ、その人民を俘とし宝器を遷し、遼の故事に倣ってその臣を君に立てるなど、冠履の秩序が乱れることこの時ほど甚だしいことはなかった。高宗の南渡で国勢は振るわず、悍僕・狂奴が主を欺き、衰敗は悪へと動きやすい。兵は凶器であり、とりわけ残忍を用いる将を忌むべきである。忍人(残忍な者)に先んじて仁心がなければ、君親に背くことなど掌を返すようなものである。
- 世将の子に重兵を握らせ、要害の地に居させることは、乱を招く道ではないか。大義が明らかであれば旋踵して滅び去るのは天道である。綱常を扶け乱略を遏めるため、ここに叛臣伝を作る。
出仕から質としての苦難
- 張邦昌は字を子能、永静軍東光の人。進士に及第し大司成に累官するが訓導失職の咎で提挙崇福宮に貶され、知光州・汝州を経て政和末、知洪州から礼部侍郎に改まる。崇寧・大観以来の瑞応の顕著なものを取り上げ旗物に増製することを首請し容れられた。宣和元年、尚書右丞から左丞に転じ中書侍郎に遷る。
- 欽宗即位で少宰を拝命。金軍が京師を犯し三鎮割地が議されると、康王と邦昌は質として金に送られたが、姚平仲が夜に金営を斫ったことで斡里雅布が怒り邦昌を責め、邦昌は「朝廷の意ではない」と弁明した。太宰兼門下侍郎に進み、康王が還ると代わって肅王が質とされ、邦昌は河北路割地使とされた。
- もともと和議を主張していた邦昌は、自ら質となることを望まず、欽宗に「割地議を変更しない」旨の御批署名を求めたが許されず、璽書を河北に付すことも許されなかった。尼堪の再侵の際、邦昌を「敵に私通し社稷を売る賊」と批判する上書があり、観文殿大学士・中太一宮使に落とされ割地議は罷まれた。
偽楚の擁立
- その冬、京師が陥落し帝は郊外に留められた。翌年春、呉幵・莫儔が金営から文書を持ち「異姓の人主に堪える者を推せ」と伝え、留守の孫傅らは応じず趙氏の存続を上表したが、金は怒って幵・儔を再び遣わし、傅らを軍前に召して百官に議させた。誰も声を出せない中「今日は勉めて応命し、軍前に居る者を挙げよう」との案が出て、たまたま尚書員外郎の宋齊愈が「金人の意中の人物」として張邦昌の三字を書いて示し、議は決した。
- 孫傅・張叔夜は署名を拒み金軍に捕らえられた。留守の王時雍は再び百官を秘書省に集め、省門を閉じて兵で囲み、范瓊に立邦昌を説かせた。太学生の反対の声を瓊が力ずくで抑え、時雍が先に署状して百官を率いた。御史中丞の秦檜だけは署名を拒み趙氏宗室の擁立を主張、邦昌を「上皇時代に讌遊に耽り権姦に阿附し社稷を危うくした責任者」と名指しして激怒を買い、金の軍前に連行された。
- 邦昌は入って尚書省に居し、金は即位を促した。邦昌は自尽を図ろうとしたが「相公が城外で死ななければ一城が塗炭に帰す」と説得され、金の冊寶を受けて北向拝舞し偽位に即いた。国号を大楚とし金陵を都に擬した。文徳殿での受賀の際、拝礼を控えるよう命じたが時雍は率先して拝し、邦昌は東西に拱立するのみだった。宣賛舎人の呉革は異姓に屈することを恥じ、内親事官数百人と挙義を謀ったが、范瓊に偽って合謀すると欺かれ兵を放棄させられた末に襲殺され、革とその子も殺された。この日は風霾(つむじ風と砂塵)が起き日暈もあり、百官は暗澹とした。
高宗擁立への転向と処分
- 時雍・幵・儔・瓊は佐命の功ありと欣然としていた。時雍は「臣」と称し邦昌を陛下と呼んだが、邦昌はこれを叱った。紫宸殿・垂拱殿への昇座を勧められたが呂好問が争って止めた。四方に恩を推し及ぼすべく密諭使を選び、金軍撤退時には邦昌自ら金営に赴き祖別、士庶は感愴した。二帝の北遷に際しては百官を率いて南薫門で遙かに辞し、慟哭のあまり仆れる者もあった。
- 金師が還ると邦昌は天下に赦を降す手書を発した。呂好問は「人情が公に帰しているのは金の威に劫かされているだけだ。金が去った今、康王を推戴すべき」と説いた。監察御史の馬伸も康王の迎立を請い、邦昌はこれに従った。王時雍が「騎虎の勢いで下りられない」と反対し徐秉哲も同調したが、邦昌は聴かず、元祐皇后(宋太后)を冊立して延福宮に迎え、蔣師愈を康王に遣わして「金人推戴に従ったのは一時の権宜に過ぎない」と弁明の書を送った。
- 康王は事情を確かめた上で邦昌に返書し、邦昌は謝克家に大宋受命の宝を献じさせ、元祐皇后の垂簾聴政と復辟の意を重ねて上奏、太后は内東門小殿で垂簾を始めた。邦昌は太宰として内東門資善堂に退き、乗輿服御物を東京に送った後、自ら伏地慟哭して死を請うたが康王(高宗)は撫慰し即位、邦昌は太保・奉国軍節度使・同安郡王に封じられた。
- しかし宰相の李綱は「邦昌は久しく機政を典り宰相の位を極め、国が破れるとこれを利とし、君が辱められるとこれを栄とした。異姓の国を建てた四十余日を、金軍が退いた後の赦だけで恩に免じるのは誤りで、市朝で処罰し乱臣賊子の戒めとすべき」と上書し、黄潜善が擁護する中でも「僭逆の罪は道路の民に故天子と見なされる原因になる」と力説した。高宗は「原因は迫脅にあった」として死は免れさせつつ、昭化軍節度使・潭州安置に貶した。
- 邦昌が僭居していた頃、華国靖恭公夫人の李氏がしばしば果実を捧げて邦昌に厚遇し、ある夜、邦昌が酔うと李氏が赭色の半臂を着せて福寧殿に導き、養女の陳氏をも侍らせたことがあった。邦昌が東府に戻ってから李氏が密かに送り出し「乗輿」を語ったとの咎で、帝はこれを聞くと邦昌に死を賜い潭州で自尽させ、李氏は杖脊配車営務、王時雍・徐秉哲・呉幵・莫儔も既に遠竄されていたが、この時併せて時雍が誅殺された。