出仕から金への降伏
- 劉豫は字を彦游、景州阜城の人。家は代々農を業とし、豫の代に初めて進士に及第、元符中に登科した。若い頃は品行が悪く、同舎生の白金の器や紗の衣を盗んだこともあった。政和二年、殿中侍御史に召されるが言者の攻撃を受け、帝は旧悪を暴くことを避けて不問とした。まもなく礼制局の事を度々論じ、帝に「劉豫は河北の農夫あがりで礼制など分かるまい」と評され両浙察訪に黜けられた。
- 宣和六年、判国子監・河北提刑を経て金軍の南侵に際し官を棄てて儀真に避難した。中書侍郎の張慤の推薦で建炎二年正月、知済南府となるが、山東の盗賊蜂起を理由に東南への転任を願うも執政に拒まれ、忿って赴任を渋った。その冬、金軍が済南を攻めると豫は関麟を出撃させたが金軍に囲まれ、郡倅の張柬が援軍を送って敵は退いた。金は利で豫を誘い、豫は前の忿りから反逆を企て、部将の関勝を殺して百姓を率いて降伏、百姓が従わないと城を乗り越えて金に降伏を告げた。
偽斉皇帝への即位
- 建炎三年三月、烏珠は高宗の渡江を聞くと豫を知東平府に移し京東西・淮南等路の安撫使として大名・開徳・濮・濵・博・棣・徳・滄等州を節制させ、麟に済南以南の旧河域を統括させた。四年七月丁夘、金は大同尹の髙慶裔・知制誥の韓昉を遣わして豫を皇帝に冊立し、国号を大齊、大名府を都とした。事前に北京で順豫門に生える瑞禾や済南の漁民が得た鱣(チョウザメ)などを「天命の符」とし、麟に重宝を金の左監軍達蘭に贈り僭号を求めさせた。金は使者を派して軍民の意向を諮ったが、豫の郷人・張浹が越次して立豫を請い議は決した。
- 九月戊申、豫は偽位に即き境内に赦を下し、金の正朔を奉じて「天会八年」と称した。張孝純を丞相、李孝揚を左丞、張柬を右丞、李儔を監察御史、鄭億年を工部侍郎、王瓊を汴京留守、子の麟を大中大夫・提領諸路兵馬兼知済南府とした。孝純はもともと太原を堅守し忠義に篤かったが、高宗が王衣を用いて招こうとした矢先、尼堪が孝純を雲中から豫のもとへ送ったことで節を失った。豫は東平を東京に昇格させ、東京を汴京に改め、南京を歸徳府に降格した。
- 弟の益を北京留守とし、後に汴京留守を改め淮寜・永昌・順昌・興仁府を州に降格。景州出身で済南を節制し東平で自立、大名で僭位したことから、四郡の丁壮数千人を「雲従子弟」として起用し直言を求める偽詔を発した。十月には母の翟氏を皇太后、妾の錢氏(元宣和の宮人)を皇后に冊立した。十一月、明年の元号を「阜昌」と改めた。
金への忠誠と各地への侵攻
- 僭号前から東京副留守の上官悟や趙立、劉長孺らへの帰順工作を繰り返したが失敗し、悟・劉偲は斬られ、趙立も拒絶した。宗室の閻琦は豫に匿われた縁で杖死させられ、王寵・李喆・姚邦基らは官を棄てて逃れた。朝奉郎の趙俊は甲子(干支)を書いて偽の年号を書かなかった。洪皓は冷山にあって豫への出仕を拒み、蜀に逃れる士人もいた。滄州の進士・邢希載は豫への上書で通宋を訴え殺された。豫は陳東・欧陽澈の廟を歸徳に建て張廵・許逺の双廟に倣った。
- 紹興元年、張俊が李成を敗ると成は豫に帰した。王友直が李成を招き劉光世・呂頤浩を非難する書を送った。豫は麟を兵馬大総管・尚書左丞相とし招受司を宿州に置いて宋の逋逃者を誘引した。金は旧河を境と定め両河民の遁走を防ぐため大索した。十月、豫は王世冲に廬州を攻めさせるも守臣の王亨がこれを敗り、十一月、葉夢得が豫将の王才を招降、郭振も王彦・関師古に敗れた。海州の薛安靖・李彚が来帰、二年、董先が商・虢二州を叛いて豫に附くと、桑仲が正罪を上疏、朝廷は仲に討伐を命じた。
- 仲がその将・霍明に殺されると河南鎮撫使は仲の子二人に継がれ、霍興が伊陽山に屯して豫を悩ませたが楊偉の裏切りで殺された。四年、豫は汴に遷都し祖考を宋の太廟に祭り、祖を徽祖毅文皇帝、父を衍祖睿仁皇帝と尊した。曲赦を行い「以後赦を頻発せず宦官を用いず僧道を制限せず文武を資格によらず登用する」と約したが実行は伴わなかった。麟は郷兵十余万を皇子府十三軍とし河南・汴京に分置、両京の冢墓を発掘して財を得ようとするなど民は疲弊した。
- 五月、桑仲の死を聞き隨州・鄧州への招降を試みるも失敗、六月、蘄黄鎮撫使の孔彦舟が豫に降り、直徽猷閣の凌唐佐らは疏を密送しようとして発覚し殺された。十二月、襄陽鎮撫使の李横が揚石で豫兵を破り潁昌府を攻め落とすなど、豫方はしばしば敗退した。三年、金の増援を得て李成が長葛・潁昌を奪還し、四月には虢州も陥落するが、謝臯は自ら腹を裂いて死ぬなど抵抗も続いた。徐文が明州の海舟をもって豫に投降し沿海の弱点を告げるなど、豫は東南への攻略の足がかりを得た。
南征の失敗と廃位
- 五月、韓肖胄・胡松年が偽斉に使いした際、豫が臣礼を求めたが松年は「均しく宋の臣」として拝せず、豫は屈服させられなかった。九月、楊政が豫兵を蓮花城で破り、十月、李成が鄧州・襄陽を陥し、李道・李簡らが敗走。豫は各地の州を占領していったが、劉光世の軍が馬家渡で防ぎ、十一月、金の李永夀・王翊が来て豫への旧民返還や画江(境界画定)を求めたが、広州監官の呉伸は「豫を討つべき」と献策した。
- 四年正月、綦崇禮が「豫の画江要求は必ず豫自身の意向」と警告、二月、関師古が敗れて洮岷が豫に帰したが、五月、岳飛が舒・蘄等州制置使として襄陽を復し、李成は敗走、六月には隨州、七月には鄧州も復された。豫は金に援軍を求め、九月、豫は「混一六合」を掲げて子の麟に南侵させ、宗輔・達蘭・烏珠が分道南侵、楚州・揚州が脅かされる中、趙鼎・張浚は退避よりも親征を主張、帝はこれを容れた。
- 十一月、正式な討伐の詔が下り士気は高まった。淮西の王師晟・張琦が夀春を復し、十二月、岳飛の将・牛臯・徐慶が廬州で金軍を破り、金軍は麟に輜重を棄てさせ撤退した。五年、酈瓊が光州を復し、七月、豫は明堂を講武殿に転用したが暴風に見舞われ、十月、光州は再度陥落した。豫は民に子を鬻ぐことを許すなど苛政を極め、金主亶に海道図・戦船の設計図を献じるなど媚びを続けた。
- 六年、豫は淮揚で敗れ、九月、沿海互市を廃止した。張孝純の「南朝が舟を訓練してきた」との警告が背景にあった。金主亶は「先帝が豫を立てたのは疆を開き境を保ち、我らは息民できるはずだったが、豫は進むも退くもできず兵禍が続く」と烏珠に不満を漏らし、麟らを籍民三十万で三道から侵攻させたが、韓世忠が藕塘で劉猊軍を大破するなど各地で敗北し、麟の兵は自書鄉貫姓名して縊死する者まで出るほど人心を失った。金は豫を見限り始めた。
廃位と晩年
- 豫は麟を太子に立てることで金の意向を伺わせたが、金は「河南百姓の意向を訪ねてから」と保留した。七年、豫の遣った諜が淮甸に火を放ち劉光世の帑蔵を焼くなど抵抗を続けたが、麟の敗戦で中原の民は宋の王師を待望するようになった。八月、統制の酈瓊が呂祉を殺して三万の兵と共に豫に降ったが、金は瓊の兵力を危険視して偽って降を拒む策を取り、女真の万戸・蘇伯を元帥府左都監として太原に、渤海万戸の大托卜嘉を右都監として河間に配置。尚書省は「豫は治国に失敗した、廃すべき」と奏した。
- 十一月丙午、豫は蜀王に廃された。金主は先に達蘭・烏珠に南侵を偽装させ汴に至らせ麟を武成に誘い出して騎で挟み捕らえ、豫が講武殿で射術をしていたところ烏珠が三騎で東華門から突入して手を取り、宣徳門で羸馬に乗せられ刃を突きつけられて金明池に幽閉された。翌日、百官に廃詔が読まれ、鉄騎数千が宮門を囲み「以後は軍役も免行銭も課さない」との触れを流して民心を慰撫した。
- 行台尚書省が汴に置かれ、張孝純が権行台左丞相となり、豫方の官僚は各郡に配された。諸軍は農に帰され宮人は出嫁を許された。金・銀・米・絹・銭の巨額が金の管理下に入った。豫は達蘭に哀を乞い「趙氏の少帝が出京した際は百姓が悲泣したが、汝の廃位に涙する者は一人もいない、自省すべきだ」と諭され、相州の韓琦邸への居住を願い許された。後に子の麟と共に臨潢に徙され曹王に封じられ、紹興十三年六月(金の皇統三年)に卒した。享年六十五、僭号は八年に及んだ。
- 廃位前、斉の地では梟が後苑で鳴き、龍が宣徳門を撼がせて「宣徳」の二字が消える怪異や、平原鎮への星の隕落など凶兆が相次ぎ、識者は「禍は百日を出でずして起こる」と評し豫は怒って占者を殺したが、間もなく廃された。麟府路経略使の折可求が金に降った後、達蘭が疆土返還を検討する中で可求の不満を恐れ酖殺した一件も豫の僭逆に連なる事件であった。豫の即位に際し、馬定国は君臣名分論を、祝簡は遷都を勧める賦を進上するなど阿諛追従が続き、許清臣が景霊宮を毀ち、孟邦雄が永安陵を発掘するなど、天理に悖る行為が繰り返された。