宋史卷四百七十四 列傳第二百三十三 丁大全

出仕から権勢確立

  • 丁大全は字を子萬、鎮江の人。顔が藍色を帯びていた。嘉熙二年に進士に及第し蕭山尉に任じ、帥閫の史巌之に謁見した際、他の客が退いた後も残り懇ろに応対し、後日の重用を約束された。戚里の婢の壻となり内侍の盧允昇・董宋臣に取り入って寵を得、大理司直・饒州通判添差を経て太府寺簿・尚書茶塩所検閲・樞密院編修官を歴任、右正言兼侍講、右司諫を経て殿中侍御史・侍御史兼侍読に至る。
  • 丞相の董槐を弾劾する詔がまだ下らないうちに、大全は夜半に隅兵百余人を動員して刃を露わに槐の邸を包囲し、台牒で威嚇して大理寺に連行しようとした。槐は徐歩して接待寺に入り、罷相の命が下った。以後大全は驕慢を極めた。右諫議大夫・端明殿学士・簽書樞密院事・丹陽郡侯を経て同知樞密院事兼権参知政事、宝祐六年、参知政事、四月には右丞相兼樞密使となり公に進封された。

失脚と最期

  • 大全が九江制置副使に用いた袁玠は貪欲で、漁湖の土豪を逮捕して督促したことから土豪が怒って漁舟を北来の兵に提供する事件が起きた。太学生の陳宗ら六人が伏闕して大全を訴えたが台臣の翁応弼・呉衍が大全の犬となって学校を鈐制し、宗らは貶逐された。開慶元年九月、罷相となり観文殿大学士・判鎮江府。中書舎人の洪芹は「鬼蜮の資、穿窬の行いで凶悪を引き用い忠良を陥れ言路を塞ぎ朝綱を濁乱した」と繳言し、追官逺竄を求めた。
  • 侍御史の沈炎、右正言の曹永年、監察御史の朱貔孫(姦回険狡・貪残無恥・陛下の刑威を借りて言路を箝制)、監察御史の饒虎臣(言路を絶ち人材を壊し民力を竭くし辺防を誤らせた)の弾劾が続き、官を再三削られた。景定元年、中奉大夫致仕とされ、臣僚の求めで南康軍居住とされたが台臣の追及で三官を追われ南安軍に移された。翌年、劉応龍の請で貴州団練副使に落とされ竄流、州守の游翁明に「大全は密かに弓矢を造り蛮と通じ不軌を図っている」と杯酒の間で愬えられた事件も朝廷に聞こえた。
  • さらに翌年、新州に移され、太常少卿兼権直舎人院の劉震孫が海島への移送を上奏、四年正月、将官の畢遷が護送中、舟が藤州を過ぎる際に大全を水に沈めて殺害した。大全は淮西総領の鄭羽と婚姻を結ぼうとして拒まれ、台臣の卓夢卿に羽を弾劾させたが、子の壽翁が娶った婦人の艶美さを自ら奪って世に醜聞とされた。