宋史卷四百六十二 列傳第二百二十一 方技下
本巻は北宋中期以降の道士・方士・医家の列伝。賀蘭棲真・柴通玄・甄棲真ら養生の術に長けた道士、楚衍ら暦算家、龎安時・錢乙ら名医、郭天信・王老志・王仔昔・林靈素ら徽宗に取り入った方士、皇甫坦・王克明ら南宋の医官、莎衣道人・孫守榮ら予言で知られた人物までを収める。
年表(14件)
- 景徳2年(1005年)賀蘭棲真が召され「宗元大師」の号を授かる
- 大中祥符3年(1010年)賀蘭棲真が没す
- 大中祥符4年(1011年)柴通玄・李寧らが「正晦先生」等の号を賜る
- 乾興元年(1022年)秋甄棲真が死期を弟子に予告し尸解する
- 皇祐年間楚衍が新暦「崇天暦」の製作に加わる
- 景祐元年(1034年)許希が鍼で仁宗の病を治す
- 崇寧4年(1105年)3月魏漢津の鼎が完成し「冲顯處士」の号を賜る
- 崇寧4年(1105年)8月大晟楽が完成する
- 政和3年(1113年)王老志が京師に召される
- 宣和の初め林霊素が城壁上を歩き役夫に殴られかけ人々の怨みを招く
- 紹興5年(1135年)王克明が67歳で没す
- 紹興末莎衣道人が平江で異能を現し人々に知られる
- 慶元6年(1200年)莎衣道人が没す
- 宝慶年間孫守榮が呉興で潘丙の乱を予言する
賀蘭棲真
- 出身は不明。道士として100歳と自称し気を養う術に優れ、寒暑を厭わず時に食を絶ち、時に酒を縦にして市街で肉を数斤も食べることがあった。初め嵩山の紫虚観に住み、後に済源の奉仙観に移った。張齊賢と親しく、景徳2年(1005年)、詔に「師は巌壑に身を置き志を煙霞に抗し、心を衆妙の門に観じ浮雲の外に俗を脱している。朕は希夷を奉じて教えとし清静をもって民に臨み、道ある人を訪ねて無為の理を求めたいと久しく願ってきた。師の暫しの別離を経てなお朝廷に来られるよう、必ず招請の使いを送る」とあり、内品の李懐贇を遣わして闕に召した。至ると真宗は二韻の詩を作って賜い「宗元大師」の号を授け、紫服・白金・茶帛・香薬を加え、観の田租を特に免除し、侍者の度牒も授けた。まもなく旧居に帰ることを願い出て、大中祥符3年(1010年)没した。その時は大雪が3日続いたが頭頂だけは熱を保っていたといい、人々は不思議がった。
柴通玄
- 字は又玄、陕州閿郷の人。道士として承天観に住み、辟穀・長嘯に優れ、ただ酒だけを飲み唐末の事を語ればことごとく明瞭であった。太宗は闕下に召したが、本観に帰ることを懇願した。真宗の即位後は度々京師に来て、対話は飾りなく多く修身慎行を説いた。汾陰祭祀の際には行在に召され、座を賜り無為の要を問われた。住んでいた観は唐の軒游宮であり明皇(玄宗)の詩碑や自書の道徳経の碑が残っていた。上は二韻の詩を作って賜い、茶薬・束帛も加え、詔により「修道院」とし田租を免じ弟子2人の度牒も許した。翌年春、通玄は遺表を作り自ら「羅山太一洞主」と称し、弟子の張守元・李守一を遣わして龜鶴を献じ、また官僚・士庶を集めて生死の要を語った。夜半、身を清め香を焚いて庭中で闕を望んで座り、夜明けを待たず没した。同じ頃、河中の草澤劉巽、華山の隠士鄭隱、敷水の隠士李寧も召された。巽は年70余りで経伝の講授を続け、みずから耕作して自活していたが、大理評事致仕を授けられ緑袍・笏・銀帯を賜った。隱は経術を業とし、道士に会って辟穀練気の法を伝えられ、その修習は効き目があり、華山の王刁巖に二十年余り住み、冬夏を通じて皮衣を着続けた。寧は薬術に精しく老いても衰えなかったといい、常に薬を人に施し、人が金帛で報いようとしても拒んだ。景徳年間、萬安太后の病に際して駅伝で寧を召したが、着く前に太后は崩じた。大中祥符4年(1011年)、「正晦先生」の号を賜り、上は皆に詩を賜い茶薬・繒帛を加えたが、隱だけは賜物を辞退して受けなかった。
甄棲真
- 字は道淵、単州単父の人。経伝に広く通じ詩賦に長け、一度進士に応じたが及第せず「精神を労し力を尽くして虚名を追うのは益がない」と嘆いてその道を捨て、道家の書を読んで自ら楽しんだ。初め牢山の華蓋先生に道を学び、京師に出て建隆観に入り道士となった。四方を巡って薬術で人を救い報酬を取らなかった。祥符年間、晋州に寓居し性は和静で好悪がなく、晋の人々に愛されて紫極宮の主とされた。75歳の頃、許元陽と称する人物に出会い「お前は風格が並外れている、李筌のようだ。老いてはいるがなお仙となりうる」と告げられ、練形養元の術を授けられ「道を得るのは反掌のようなものだが、実行するのが難しい、努めよ」と言われた。棲真はこれを2、3年実践し、次第に童顔に戻り、危険な高所も軽やかに攀じ登れるようになった。乾興元年(1022年)秋、弟子に「今年の暮に私は世を去る」と告げ、宮の西北隅に自ら殯室を築いた。室が完成すると1ヶ月食を断ち、平生親しかった人々と別れの言葉を交わし、12月2日に紙の衣をまとい磚榻に横たわって没した。人々は当初特に不思議に思わなかったが、月日を経ても姿が生きているようであったため、尸解(仙化)だと驚き伝えた。棲真は自ら「神光子」と号し、隠者の「海蟾子」なる人物と詩を往還して養生の秘術を論じ、これを「還金篇」と題した書が2巻ある。
楚衍
- 開封阼城の人。若くして四声字母に通じ、里人の柳曜がこれに師事し、里の人々は「先生」と呼んだ。衍は九章・緝古・綴術・海島などの諸算経に特に長け、また相法および聿斯経に明るく、天文占候の推歩に優れ、話の合間に運勢を語れば当たらぬことがなかった。自ら宣明暦の試験を受け司天監学生に補せられ、保章正に遷った。天聖の初め新暦の作成が行われ、衆は衍が暦数に明るいことを推挙し、霊台郎を授けられ暦官の宋行古ら9人とともに「崇天暦」を製作、司天監丞に進んで翰林天文に属した。皇祐年間、同じく司辰星漏暦12巻を製作し、後に周琮とともに司天監を管勾し、没した。子はなく、娘も算術に優れたという。
僧志言
- 自ら許姓と称し、寿春の人。東京の景徳寺で七俱眂院に落髪した。事のはじめ、清璲が誦経に勤めていたところ、志言が突然清璲のもとに現れ跪いて弟子になることを願った。清璲はその容貌が奇古で瞬きせず直視するのを見て心中不思議に思い、具足戒を授けた。しかし志言は挙動が軒昂で笑い語るに度がなく、市里を裳をたくし上げて足早に歩き、指で空に文字を書き佇立し続けることが多く、時に屠殺場や酒場に出入りし人を選ばず飲食したので、人々は狂人とみなしたが、清璲だけは「これは異人だ」と言った。ある人が斎の施しをしようとすると、志言はあらかじめその到来を知って門を叩かれるのを待たず名を指して供物を取った。温州の人林仲方が家から摩衲の袈裟を献じるため舟が岸に着くとすぐさま来てそれを持ち去った。仁宗はしばしば禁中に招き入れ、座に登り趺坐して食を終えるとすぐ出て、揖拝すらしなかった。王公・士庶が呼べば赴くが、誰とも一言も交わさなかった。時に占いを密かに行い紙に書きつけると、字体は遒壮で最初は判読できなかったが、後で多くが的中した。仁宗が春秋(年齢)が進むにつれ跡継ぎがまだ立たず、密かに内侍を志言の所へ遣わすと、志言の言葉・書付には「十三郎」の文字があったが誰もその意味が測れなかった。後に英宗が濮王の第13子として跡継ぎに入ると、人々は初めて悟った。大宗正の守節は志言に書を求めると、志言は逆らわずに「潤州」の字を書いた。まもなく守節が薨じ丹陽郡王が贈られた。寺の童義懐に会うと、志言はその背をなでて「徳山臨済」と言い、懐は落髪して後に天衣に住し説法して大いに学者たちに宗とされたが、この予知の力は同様の話が多かった。普浄院で施浴のとき夜漏がまだ尽きぬうちに門扉が開かず、まさに仏を迎えて浴していると室の中に人の声がしたので見に行くと志言がいた。斎で膾を供えた者がいて食したが、水辺で吐き出すと小さな魚に化して群れをなして泳ぎ去った。海の旅客が風に遭い沈没しかけたとき、僧が綱を操って船を引き渡すのを見た。客が都下に至って志言に会うと、志言は突然「私でなかったらお前はどうなっていたか」と言い、客はその容貌を覚えていて、まさに舟を引いた者だと分かった。曹州の士人趙棠と親しく、棠は官を捨てて隠居し番禺の人に伝えられたところによると、棠と言はたびたび偈頌を交わし、万里の間でも数日で届いたという。棠が死んだのはまさに盛夏であったが遺体は腐らず、言は死に臨んで頌を作ったがその意味は判読できなかった。後に「我は古の始めから成就して幾多の国土を経巡り、今は南の国にいる」と語った。仁宗は内侍を遣わして真身を塑像とし寺に安置させ「顕化禅師」と額を掲げた。後に善厚という者が礼拝したとき額の上に光を見て、探ってみると舎利が得られたという。
僧懷丙
- 真定の人。巧みな発想は生まれつきのもので学んで至れるものではなかった。真定に木造13層の浮図(仏塔)があり、久しく経つと中層の大柱が壊れ西北に傾いた。他の匠は誰も直せなかったが、懐丙は長さを測って別の柱を作り、多くの職人に維(ロープ)で塔を維持させながら柱を上げさせた。その後彼は一人職人だけを従えて戸を閉め、しばらくして柱を交換したが斧や鑿の音は聞こえなかった。趙州の洨河には鉄を鋳込んだ石橋があり、唐代以来数百年の大水にも壊れなかったが、時を経て郷民の多くが鉄を盗掘したため橋が傾き、千人の力でも直せなかった。懐丙は職人を使わずに術でこれを正した。河中府の浮橋は鉄牛8頭で維持されていたが、1頭あたり数万斤もあり、後に水が暴れて梁が切れ、牛は河に沈んだ。募って引き上げようとする者を求めたところ、懐丙は大船2艘に土を積んで牛を挟み、大木で秤の柄のような仕掛けを作って牛を鈎で引っかけ、徐々に土を取り除くと船が浮き牛が現れた。転運使の張燾がこれを朝廷に報告し、紫衣を賜ったが、まもなく没した。
許希
- 開封の人。医を業として翰林医学に補せられた。景祐元年(1034年)、仁宗が病んだとき侍医が何度も薬を進めても効かず、人々は憂え恐れた。冀国大長公主が希を推薦し、希は診て「心下の□(底本欠字)絡の間に鍼を打てば速やかに治るでしょう」と言ったが、左右の者は不可と争った。宦官たちは自ら試し害がないことを求め、無事だったため鍼を進めると帝の病は治った。希は翰林医官を命じられ、緋衣・銀魚・器幣を賜った。希は謝礼を述べた後、さらに西に向かって拝したので、帝が理由を問うと「扁鵲は私の師です。今回のことは私の功ではなく師の恩に他なりません、どうして師を忘れられましょうか」と答え、賜った金を扁鵲廟の興建に使わせてほしいと願った。帝は城西に廟を築かせ「霊応侯」に封じ、後に廟はますます整備されて医を学ぶ者がそこに集うようになり、大医局が傍らに建てられた。希は殿中省尚薬奉御に至って没し、『神応鍼経要訣』を著して世に行われた。子の宗道は内殿崇班に至った。
龎安時
- 字は安常、蘄州蘄水の人。子供の頃から読書し一度見たものは覚えた。父も代々医者で脈訣を授けたが、安時は「これでは足りない」と言い、独り黄帝・扁鵲の脈書を取って学び、まもなく通じてしばしば新しい見解を出し、詰め寄られても屈しなかったので父は大いに驚いた。時に安時はまだ元服前で、その後、耳の病を患い、いっそう『霊枢』『太素』『甲乙経』などの秘書を読み、経伝百家のうちその道に関わるものはすべて通じた。かつて「世に医書と言われるものはすべて見てきたが、扁鵲の言だけは深遠だ。いわゆる『難経』は扁鵲がその術をこの書に寓しながら詳しくは述べていない。おそらく後人に自ら求めさせようとしたのだろう。私の術はここから出ている。これを用いて浅深を視て死生を決めれば符節を合わせるようだ。脈を察する要は人迎・寸口の二脈が陰陽相応する点にある。ちょうど二本の紐を引き合わせるように陰陽が均衡すれば紐の大小も等しくなる。だから陰陽を喉と手に定め、覆・溢を尺寸に配し、九候を浮沈に寓し、四温を傷寒に分ける。これらはみな扁鵲がわずかに端緒を開いたに過ぎないが、私はさらに『内経』の諸書を参照して考究しその説を得た。これを審らかにして用い、順って治せば病は逃れられない」と語り、また術を後世に伝えようとして『難経辨』数万言を著した。草木の性質と五臓の適応を観察し、その職務を秩序立て寒熱・奇偶を分類して多くの病を治療し、『主対集』1巻を著した。古今の異なる処方や失われた術を集めて陰陽の変化に備え、仲景(張仲景)の論に不足する薬を補い、後世に出た薬で古人が知らなかったものでも試して効があれば取り入れ、『本草補遺』を著した。治療にあたっては十中八九が治り、患者のために宿舎を設け親しく粥や薬を世話し、必ず治してから帰した。治らない者にはその旨を告げて治療を続けなかった。多くの人を活かしたが、病家が金帛で謝礼しようとしても全てを受け取ることはなかった。かつて舒州桐城に赴いたとき、ある民家の妻が出産7日に及んでも子が生まれず、百術を尽くしても効なく、弟子の李百全がたまたま傍らにいて安時を招いて診させた。安時は見るなりすぐに「死なない」と言い、家人に湯で腰腹を温めさせ自ら按摩すると、産婦は腸胃にわずかな痛みを覚えうめき、しばらくして男児を出産した。その家は驚喜したが理由が分からなかった。安時は「子は既に胞(胎盤)を出ていたが、片手で誤って母の腸をつかんでいたため出られなかった。符や薬でどうにかなるものではない。私が腹越しに児の手の場所を探り、その虎口(親指と人差し指の間)に鍼を刺すと痛みで手が縮んですぐ生まれたのだ、他に術などない」と言い、児を見ると右手の虎口に鍼の跡があった。その妙はこのようであった。ある人が華佗の事について尋ねると「この術がそうであるなら、人にできることではない。史書の記述が誇張なのだろう」と答えた。58歳で病を発し、弟子が自ら脈を診るよう求めると笑って「私はよく分かっている、出入息までもが脈の徴候だ、今や胃気が既に絶えている、もう死ぬ」と言い、数日後、客と座って話をしながら没した。
錢乙
- 字は仲陽。もと呉越王銭俶の一族で、祖父が北方へ移り鄆州の人となった。父の頴は医術に優れたが酒好きで遊び好きで、ある朝東の海上へ行ったまま帰らなかった。乙はわずか3歳で母を先に亡くしていたため、伯母が嫁いだ呂氏がこれを哀れんで育て、成長すると医を教え、家系の事情を告げると、乙は泣いて父を探しに出て8、9回往復すること数年の後、ついに父を迎えて帰ったが、それは既に30年後のことであった。郷人は感動して詩に詠んだ。乙は呂氏に父に仕えるように仕え、呂氏が没すると跡継ぎがなかったため喪に服して葬った。乙は初め顱䪺方(小児科の書)で名を挙げ、京師に至って長公主の娘の病を診て翰林医学を授けられた。皇子が瘈瘲(ひきつけ)を病んだとき、乙が黄土湯を進めて治した。神宗が黄土がなぜ病を治すのか問うと「土は水に勝ちます。水がその平衡を得れば風は自ずと止みます」と答え、帝は喜んで太医丞に抜擢した。これにより公卿・宗戚の家から往診の依頼が絶えなかった。広親宗子の病を診て「これは薬なしで治る」と言い、幼い子がそばにいるのを指して「この子はまもなく激しい病になり人を驚かせるだろう、3日後の正午過ぎには問題ない」と言った。その家は怒って答えなかったが、翌日その幼子は果たして癎(癲癇)を発病し急を告げられて治療に呼ばれ、3日で治した。理由を問われると「火の色が直視するようであったのは心と肝がともに邪を受けている証拠、正午を過ぎるのは治療の時期が変わるからだ」と答えた。王子が嘔吐と下痢を病んだとき、他の医師が刺激の強い薬を与えて喘息を悪化させたが、乙は「これはもともと内熱で脾を傷めているのに、どうしてさらに乾燥させる薬を使うのか」と言い、そのままでは前後の排泄も不能になると石膏湯を与えたが、王は信じず断って戻した。2晩経つと病は重くなり、結局乙の言葉通りになって効いた。ある士人が咳をし顔が青く光り気が詰まっているとき「肝が肺に乗じる逆の兆候だ、秋にこの症状が出れば治せるが、今春に出たのは治せない」と言い、その人が哀願して薬を求めたので与えたが、翌日「私の薬は肝を再び瀉すが少しも緩めていない、肺を三度補ってもかえって虚を益している、それに唇が白くなっているので理としては3日で死ぬはずだが、今なお粥が食べられるので期限を過ぎるだろう」と言い、5日後に息を引き取った。妊婦が病んだとき、医師は流産すると言ったが、乙は「妊娠は五臓が順に養い、およそ60日ごとに移る。その月を見きわめてこれを補えばよい、何も流産させることはない」と言い、母子とも無事だった。ある乳婦が悸(動悸)から病を得て治ったのに目を開いたまま瞑ることができないでいると、乙は「郁李の酒を煮て飲ませ酔わせれば治る。目の系は内で肝胆に連なり、恐れると気が結んで胆の均衡が下りない。郁李は結を除く力があり、酒とともに胆に入って結が去れば胆も下がり目は瞑ることができる」と言い、飲ませると果たして効いた。乙自身も持病があり、常に自らの意で治療していたがひどくなり「これはいわゆる周痺(全身の痺れ)だ、内臓に入れば死ぬ、もう終わりか」と嘆いたが、「これを末端に移すことができる」と言って自ら薬を作り昼夜飲み続けると、左手足が急に攣縮し使えなくなった。喜んで「これで良い」と言い、親しい者が東山で一斗を超える大きな茯苓を得たのでその方法に従って食べ尽くすと、片側が不自由なままでも風骨は堅く全身は健康な人のようになり、病のまま官を辞して帰り、二度と出仕しなかった。乙は特定の師にこだわらず処方を作り、書物はあらゆるものに目を通し、旧来の法を固守することはなく時に応じて自在に対応しながらもついに法にかなった。特に本草の書に精通し誤りを正し、珍しい薬について問われれば必ずその産地・由来・色・形状の違いを詳しく語り、退いてこれを考証すると皆合っていた。晩年、手足の痺れがひどくなり治せないと知ると親戚を呼んで別れを告げ、衣を改めて死を待ち、82歳で没した。
僧智緣
- 隨州の人。医術に優れ、嘉祐末に召されて京師に至り相国寺に住んだ。脈を察すれば人の貴賤・禍福・吉凶を知り、父の脈を診て子の吉凶を言い当てたので、その言葉はまるで神のようだと言われ、士大夫は争って彼を訪ねた。王珪と王安石が翰林にいたとき、珪は「昔からこのようなことはない」と疑ったが、安石は「昔、医和が晋侯を診て良臣が間もなく死ぬことを知った故事がある。良臣の運命がその君主の脈に現れるなら、父を診て子を知ることも何ら不思議はない」と答えた。熙寧年間、王韶が青唐を取ろうとする計画で「蕃族は僧を重んじ、僧結吳叱臘が多くの部族を統率している」と上言し、智緣を伴って辺境に行かせるよう求めた。神宗は召見して白金を賜い駅伝で西へ赴かせ、「経略大師」と称された。智緣は弁舌に優れ蕃地に入って結吳叱臘を説得し帰化させ、他の部族の兪龍珂・禹藏訥令支らも書をもって帰服させたが、韶はこれを大いに忌み嫌い辺境の事を撹乱していると言上したため、召し返されて右街首座となり没した。
郭天信
- 字は佑之、開封の人。技をもって太史局に属した。徽宗がまだ端王であった頃、退朝の際に天信が密かに彼を遮って「王はやがて天下を得るでしょう」と告げ、まもなく即位すると、これによって親昵を得て数年のうちに枢密都承旨・節度観察留後にまで至った。子の中復は閤門通事舎人となり、進士試験を経ずして直接大廷の試験に及第させてもらい秘書省校書郎に抜擢された。まもなく天信はすでに極めた自らの地位から武官の爵位に戻ることを願い出て、それも認められた。政和の初め定武軍節度使祐神観使を拝命し外朝の政事に多く関与し、蔡京が国を乱しているのを見るたびに天文を口実にこれを揺さぶり「日中に黒子が現れている」などと言って帝を怖れさせ言いやまなかった。京はこれにより張商英を退けさせようとしたが、実際には商英が時の望を得ようとし、天信はしばしば内朝で商英を推し、商英もまた左右を利用した遊説の助けを借りようとし、密かに結びついて僧徳洪らに言葉を伝えさせ、商英は帝に倹約を勧め僧寺を抑制するよう求め、帝は初めこれを敬い畏れたが、近侍の間で不満が積もり讒言が徐々に浸み込み帝の寵愛は日に衰えた。京の一派はこれに乗じて商英と天信が禁中の言を漏らしていると告発し、天信が先に事の発端を作り帝の意向を窺い動静を必ず報告し、外朝からこれを決めるようにしていたため望み通りにならないことがなかったとされた。商英はついに罷免され、御史中丞の張克公がさらにこれを弾劾すると天信は昭化軍節度副使に貶され単州安置となった。宋康年が守として天信の起居を管理する任に就いた。しばらくして天信はさらに行軍司馬に貶され新州に流されると、康年もまた広東に移された。天信はそこで数ヶ月のうちに死んだが、京はすでに再び宰相となっており、なお天信が術を挟んで多能であったため死は事実ではないかもしれないと疑い、康年に吏を選んで棺を開けて検分させたという。
魏漢津
- もと蜀の黥卒(入れ墨刑を受けた兵卒)。自ら唐の仙人李良(李八百と号した)に師事しその鼎楽の法を授けられたと称した。かつて三山龍門を過ぎたとき水音を聞いて「その下に必ず玉がある」と人に言い、衣を脱いで水に潜り石を抱いて出てくると果たして玉であったという。皇祐年間、房庶とともに音楽に優れているとして推薦されたが、当時阮逸がちょうど黍律の基準を定めていたため用いられなかった。崇寧の初め、なお朝廷にあって鍾律の考証にあたっていたところ召見され「楽議」を献じ、黄帝・夏禹の声を律とし身をもって度を定めるという説を唱えた。人主の資質は普通の人と異なるとし、帝の指3節3寸を度とし黄鍾の律を定め、中指の径・周をもって度量権衡が出るところとすべきだと請うた。また、声には太・少の別があり、太は清声で陽・天道であり、少は濁声で陰・地道であり、中声はその間にあって人道である、三才の道を合わせ陰陽の奇偶を備えれば四序が調い万物が理にかなうと言った。当時これは迂遠で怪しいものとされたが、蔡京だけはこれを神のごとく崇めた。ある者は漢津がもと范鎮の下働きの者で范鎮の制作を密かに窺い見て、京がそれを李良に仮託したのだと言った。こうして九鼎を先に鋳造し、次に帝坐大鐘と24気鐘を鋳造することとなり、崇寧4年(1105年)3月に鼎が完成すると「冲顯處士」の号を賜り、8月には大晟楽が完成し、徽宗は大慶殿で群臣の朝賀を受け、漢津に「虚和冲顕寶應先生」を加号し、その楽書を天下に頒布した。京の食客である劉昺が楽事を主管し太・少の説を非とする論を唱え改作を議したが、楽が完成してからすぐに変えると人心を動揺させることを恐れて中止となった。漢津は密かに京に「大晟の楽は古の意を三、四割得ているに過ぎない、他は多く古説と異なる、いずれ任宗堯に尋ねるべきだ」と語った。宗堯は漢津に学んだ者である。漢津は陰陽術数に明るく多くの予言が的中し、かつて知人に「30年経たぬうちに天下は乱れるだろう」と語ったが、まもなく没した。京はそこで宗堯を典楽に召し、さらに何か新しい制作を進めようとしたが田為に奪われた(詳細は楽志に見える)。後に鼎を鋳造した場所に「寶成殿」が建てられ、黄帝・夏禹・成王・周召を祀り、李良・漢津がともに配食され、漢津には「嘉晟侯」の諡が贈られた。馬賁という者は京の門下から出て大晟府に13年間仕え、魏漢津・劉昺・任・田の異論の間で立場を曖昧にし通議大夫・徽猷閣待制に抜擢されたが、議者は当時の名器の乱れをこのように咎めた。
王老志
- 濮州臨泉の人。孝行で親に仕えたことで知られ、転運使の小吏となったが賄賂を受け取らなかった。物乞いの群れの中で異人に出会い、その者が自ら「鍾離先生」と名乗り丹薬を授けられて服すと狂乱し、妻子を捨てて田間に草廬を結び、人に休咎(吉凶)を語るようになった。政和3年(1113年)、太僕卿の王亶がその名を朝廷に伝えたことで京師に召され蔡京の邸に館舎した。あるとき封をした書一封を帝の所に届けさせると、徽宗が開封して読むに、それは昔中秋の夜に喬・劉の二妃と交わした密会の言葉であった。帝はこれで彼を信じるようになり「洞微先生」に封じた。朝士の多くが書付を求め、初めは意味不明でも後に応じることが多かったため、その門は市のように賑わった。京はこれをひどく懸念して戒めとしたので、老志も慎み深くなり、これを禁ずるよう奏上した。かつて「乾坤鑑」を献じ、これを鋳造させるとその完成後、帝と皇后がいずれ災いに遭うので鏡の下に座して警戒し変事を避けるよう告げた。翌年、老志は師に会い「ふさわしくない富貴に身を置いている」と責められ、帰郷を願ったが許されず、病がひどくなってからようやく許された。徒歩で出立し居所に着いたときには既に病没していた。詔により金を賜って葬られ「正議大夫」を贈られた。かつて王黼がまだ出世する前、父が臨泉の県令であった頃に老志に黼の名の運勢を尋ねると、すぐに「太平宰相」の四字を書き、すぐに墨で塗りつぶし「漏らすことを恐れるためだ」と言った。黼が失脚した後、人々はようやく悟った。
王仔昔
- 洪州の人。初め儒学を学んだが、自ら許遜に会って大洞隠書・豁落七元の法を授けられたと称した。嵩山に遊学し人の未来の事を語る力があると言われた。政和年間、徽宗に召見され「冲隠処士」の号を賜った。帝が旱魃に際して雨を祈ったとき、しばしば小黄門に紙を持たせて仔昔に日を求めさせると、仔昔は突然その紙に篆符を書き、細かく文字を焼き付けた符を湯で洗い流させた。黄門は恐れて受け取ろうとしなかったが強いて持ち帰らせると、それは帝が密かに宮妃の目の赤い病を療するために祈っていたことによるもので、一度沃ぐと立ちどころに癒えた。「通妙先生」に進封され上清宝籙宮に住み、九鼎の神器は外に隠すべきではないとして禁中に円象徽調閣を建てさせて安置させた。仔昔は資質が傲慢でやや愚かなところもあり、帝は常に客人の礼をもって遇したため、彼は巨閹(大宦官)を童奴のように扱った。また道士たちを皆自分を宗とさせようとし、林霊素が寵愛を受けるとこれを妬み、事にかこつけて彼を東太乙宮に幽閉したが、まもなく言葉が不遜であるとして獄に下され死んだ。仔昔が罪に問われる際、宦官の馮浩が最も関与を深めたが、死ぬ前に仔昔は弟子に「上蔡で寃を受ける人に会うだろう」と書き記しておいた。その後、馮浩は南方に流される際に上蔡で誅せられたという。
林靈素
- 温州の人。若い頃、僧に師事したがその師の鞭打ちと罵りに苦しみ去って道士となった。妖しい術で人を惑わすことに長け、淮泗の間を行き来して僧寺で物乞いをし、僧寺はこれを厭った。政和の末、王老志・王仔昔がともに衰えると、徽宗は左道録の徐知常に方士を探させ、霊素が推挙された。会うと大言して「天には九霄があり神霄が最も高く、その治める府を神霄玉清と言い、王とはすなわち上帝の長子であり、南方を主どり長生大帝君と号し、それは陛下のことです。世に下って弟は清華帝君と号し東方を主どり統べており、府仙卿の褚慧もまた下って帝君の治世を助けています」と語り、また蔡京を左元仙伯、王黼を文華吏、盛章・王革を園苑宝華吏、鄭居中・童貫らの巨閹たちにも皆名を与え、当時寵愛を受けていた貴妃劉氏を九華玉真安妃と名付けた。帝は心中この話を喜び「通真達霊先生」の号を賜い、賞賜は限りなく、上清宝籙宮を建てて禁省に密かに繋げ、天下には皆神霄万寿宮が建てられ、次第に青華が真昼に壇に降臨したという話や火龍神剣が夜内宮に降りたという話が作られ、天書や雲篆を借りて世を欺き衆を惑わし、その説は妄誕で究めがたく実質は何も解けるものがなかったが、わずかに五雷法を知り呼風喚霆や祈雨に小さな験があったにすぎない。役人・民に神霄秘籙を宮で受けさせ、出世を望む朝士も靡然としてこれに従った。大斎を設けるたびに緡銭数万を費やし「千道会」と呼び、帝は幄をその側に設け、霊素は高座に正座し、問う者があれば皆再拝して請うたが、答える内容には特に異なる点はなく、時に卑俗な冗談や嘲りで人を笑わせた。その徒は美衣玉食で2万人近くにのぼり、ついに道学を立て郎・大夫など10等の位を置き、諸殿侍晨・校籍・授経を設けて待制・修撰・直閣に擬した。初め仏教を全て廃そうとしたが、後にその名称・冠服だけを改める方針に変えた。霊素はますます尊重され、温州を応道軍節度に昇格させ「元妙先生金門羽客冲和殿侍晨」の号を加えられ、出入りには先払いがつき諸王と道を争うほどで、都人は「道家両府」と呼んだ。もともと道士王允誠とともに怪異な神事を行っていたが、後にその軋轢を忌んで毒殺した。宣和の初め、都城で洪水が起こると霊素は厭勝の術を行うため軍役の民を率いて城壁の上を歩いたが、役夫たちが棒を挙げて彼を殴ろうとして走って逃れた。帝はこれで人々の怨みを知り不快になった。霊素は京師にあること4年、次第にわがままが度を過ぎ、ある時皇太子と道で行き会い避けなかった。太子が帝に訴えると帝は怒って「太虚大夫」に貶して郷里に返し、江端本に温州通判として彼を監視させた。端本は廉直に彼の居所を制限内に留めたが、その後死んだ。遺奏(死後に届いた上奏)が届いたとき、なお侍従の礼をもって葬られた。
皇甫坦
- 蜀の夾江の人。医術に優れた。顕仁太后が目の病に苦しみ、国医も治せなかったため詔で医を募集し、臨安の守臣張偁が坦を推薦した。高宗は召見して「どのように身を治めるか」と問うと、坦は「心が無為であれば身は安らかです、人主が無為であれば天下は治まります」と答え、慈寧殿に招かれて太后の目の病を治すと立ちどころに癒えた。帝は喜び手厚く賜おうとしたが坦は一切受けず、青城山に香を捧げて祈ることを求めた。帰って再び長生久視の術を問われると「まず諸々の欲を禁じ放逸させないこと、丹経万巻より一を守ることのほうが優る」と答えた。帝は感服し「清静」の二字を書いてその庵の名とし、その像を描かせて禁中に置いた。荆南帥の李道は坦を敬い、坦は毎年これを訪ねた。隆興の初め、道が入朝すると、高宗・孝宗はいずれも坦のことを「皇甫先生」と称し名を呼ばなかった。坦はまた人相見にも優れ、道の中の女性を「必ず天下の母となる」と占ったが、後に果たして光宗の后となった。
王克明
- 字は彦昭。もとは饒州楽平の人で後に湖州烏程県に移った。紹興・乾道年間の名医である。生まれつき乳が不足し粥で育てられたため脾胃の病を患い、成長するにつれてひどくなった。医者は治せないとしたが、克明は自ら『難経』『素問』を読んでその法を求め、意を尽くして薬を処方しついに自ら治した。初めは術をもって江淮を巡り、蘇湖に入って鍼灸を特に得意とした。脈を診て治しがたい者があれば必ず沈思してその要を得た上で薬を与え、病が複数の症状を呈しても一薬でその本を除けば余病は自然に去るとし、薬を与えない場合もあった。ある日を期して自然に治ると告げることもあり、薬の過ちではなく別の事に過ちがあると考えれば、その事に応じて治療した。言葉に外れることがなく、士大夫は皆自ら屈して彼と交わった。魏安行の妻が10年間風痿(麻痺)で起き上がれなかったが、克明が鍼を施すと元通りに歩けるようになった。胡秉の妻が気秘・腹脹を病んで10日余りうめき続けていたとき、克明が診に来ると、ちょうど秉の家で会食があったので克明は「私が恭人(胡秉の妻)の病を治せば会食に参加できます」と言い、半硫円を生姜汁と乳香で溶いて与えると、すぐに起き上がり平常通りに食事した。廬州守の王安道が風によって口をきけなくなり10日以上経っても他の医師は施す術がなかったが、克明は炭を熾して地面を焼き、薬を撒いて安道をその上に寝かせると、しばらくして意識が戻った。金の使者黒鹿谷が姑蘇を過ぎたとき傷寒を患い死にかけていたのを克明が治療し、翌日には癒えた。徐度に随行して金へ聘使に赴いた際、黒鹿谷がちょうど先排使であったため克明を厚く待遇し、克明が訝しむと谷はその理由(かつて命を救われたこと)を語ったため、これによって北方でも名が知られるようになった。後にまた呂正已に随行して金へ使いした際、金の接伴使が急に危篤に陥ったが、克明はすぐに起こして治療し、その謝礼も辞退した。張子蓋が海州で戦った際、士卒に大疫が広がったが、克明は軍中にあってほとんど数万人を救い、子蓋がその功を報告しようとしたが克明は力を尽くしてこれを辞退した。克明は書をよく知り義侠を好み、しばしば数千里を人の急を救うために赴いた。初め礼部の試験に及第し累任して医官となった。王炎が四川の宣撫使となった際、克明を招いたが応じなかったため炎は怒って克明が事を避けたと弾劾し、秩を貶められた。後に額内翰林医痊局に遷り金紫を賜り、紹興5年(1135年)67歳で没した。
莎衣道人
- 姓は何氏、淮陽軍朐山の人。祖父の執礼は朝議大夫に至った。道人は戦乱を避けて長江を渡り、かつて進士に応じたが及第しなかった。紹興末、平江に来て、ある日外から突然狂人のような姿で帰り、身に白い襴衫をまとい昼は市で食を乞い夜は天慶観に泊まった。しばらくして衣がますますぼろぼろになったのでシダ草(莎)で継ぎ合わせた。妙厳寺に遊んだとき、池の中の影を見て豁然と大悟し、以後、人の貴賤を問わず休咎を占うと必ず不思議に的中した。あるとき病人があって医を乞うと、一束の草を持たせて去らせたところ10日余りで治り、人々はシダ草で病を治せると噂して求める者が絶えなかったが、得られなかった者はかえって命を落とすこともあり、遠近でこれを不思議がった。孝宗はある夜、シダ衣の人が裸足で泣きながら弔いに来る夢を見た。訊ねると「蘇州の者です」と答えたがその理由は語らなかった。帝は目覚めて内侍にこの話をしたところ、ちょうど后と太子が薨じ、帝が哀しみに泣いていると内侍が勧め、先の夢の話を伝えたので帝はハッとした。恢復の大計を長年懸案としていた帝は、后の位も長く空いていたので、香を焚き黙って「何某よ、誠に仙たり得るのであれば必ず私の意を知るはずだ」と言い、使者を遣わし贄を届けたが理由は告げなかった。道人はこれを見て頭を振り呉の訛りで「中国あれば外夷あり、日あれば月あり、問う必要はない」と言い、急いで立ち去らせた。使者は帰ってこれを奏上し、帝は大いに不思議がった。「通神先生」の号を賜り、観の中に庵を築かせ数襲の衣を賜ったが受けず、好事家が強いて庵に招き入れると大笑いして出て元の場所に戻った。人々は日々珍しい食べ物を届け、道人は通りで食事をとり、腹一杯になるとすぐ立ち去った。帝は毎年内侍にその居所で千道齋を設けさせ雲水の僧道に施しを行わせたが、一年、期日を過ぎたとき、人々は道人が驚いて臥所から起き上がり手を振り目を瞬かせて「早く来い、早く来い」と招く様子を見た。まさにその日、内侍は平望まで来ていたと言い、人々はますますその霊験に服した。光宗の即位後に召しても来ず、慶元6年(1200年)に没した。
孫守榮
- 臨安富陽の人。7歳のとき病で失明したが、異人に出会い風角鳥占の術を教えられた。その法は音律をもって五数を推し、五行で万物の始終盛衰の理を測るもので、問う者があれば一言のうちに休咎を知った。守榮は悟りを得た後、異人から鉄笛を授けられそのまま姿を消した。守榮はこれにより「富春子」と号し、市中で笛を吹いても人は初め彼を知らなかったが、その術はよく的中した。宝慶年間、呉興に遊んだとき、譙楼の鼓角の音を聞いて驚き「近く変事が起こる、この地の者が郡を治める者となれば必ず慶事がある」と言い、王元春に会うとすぐ祝賀した。元春は初め信じなかったが、2ヶ月後に潘丙が乱を起こし、元春は変事を報告した功で果たして郡を得た。以来「富春子」の名は大いに知られ、貴人たちが争って招いた。淮南帥の李曾伯が朝廷にこれを推薦し、着くと丞相史嵩之を訪ねたが、門番が「昼寝中です」と断った。守榮は「丞相は今まさに園池で魚を釣っているではないか、なぜそんなことを言うのか」と言い、門番は驚き丞相に伝えると、丞相は一目見て大いに喜び、以後しばしば相府に出入りするようになった。ある日、庭で鵲が鳴いたので占わせると「明日晡時(夕方)に宝物が届くだろう」と言い、翌日果たして李全が玉柱の斧を貢いできた。嵩之がまた李全からの檄文を得て袖に隠し事情を尋ねると、守榮は「これは李全が偽って布嚢に20万を偽装したものだ」と言い、封を剥がすとまさにその通りであった。士大夫は皆守榮に自らの経歴を尋ねたが、彼は全て答えることはせず、知人にひそかに「私は音をもって朝廷の紳士たちを推し量ると、互いに盛衰があり、宋の運もそろそろ終わるだろう」と語った。後に嵩之に忌まれ、他の罪に誣告されて遠郡へ流され、そこで死んだ。