姚興
- 相州の人。靖康中、州校として金人を刦殺する功があり承信郎に借補された。建炎初、張琪が兵を集め東京に戻ると留守・宗沢のもとに従い、また琪に従い池州で劉洪道に依った。紹興元年、琪が叛いて饒州を掠めると、呂頥浩がこれを招降しようとしたが琪は命に従うと見せかけて豹変し総管・巨師古を捕らえて殺そうとした。興は密かに所部に諭し師古とその妻を挟んで遊騎の隙をついて夜に頥浩の陣に戻った。頥浩はこれを義とし朝廷に上奏し武義郎を授け張浚の軍に隷属させた。のち劉錡に従い順昌を守り、宿・亳下の城父・永城・臨渙・蘄県・朱家村を回復し武略大夫に進み、淮壖で戦功をあげ右武大夫を授かり累進して建康府駐劄御前破敵軍統制、荊湖南路兵馬副都監を兼ねた。紹興三十一年、金人が盟約を破ると、興は都統王権の麾下に属し金兵五百騎と廬州の定林で遭遇し戦って退け、女直の兵・鶻殺虎を生擒した。当時金主・完顔亮が寿春にあり、江淮制置使劉錡が権に迎撃を命じたが権は怯懦で進まず、錡が督戦を強めるとやむなく廬州を守った。金兵が淮を渡ると権は興にこれを防がせ自らは和州に退いた。興は金人と尉子橋で遭遇、金は鉄騎で進み、興は兵を指揮して力戦し自ら数百人を殺した。権は仙宗山に逃れ厳重に自衛し、興が急を告げても応じず、統領・戴皋は馬軍を率いて避けた。かつて李二という者が権に私恩を受けて軍中を出入りし、金と両界を往来し貿易していたが、密かに権の旗幟を盗んで金人に渡し、金人はこれを立てて興を欺いた。興は寄せられたその旗幟を見て向かい、父子ともに死んだ。事が上聞し詔により容州観察使を贈られ、さらに家族三人が登用され、砦のあった場所に廟が立てられた。淮西を回復した後もさらに戦った場所に廟を立て「旌忠」の額が賜られた。開禧元年、戸部侍郎・趙善堅が「近く辺境の古老に尋ねたところ、姚興は四百騎で金の十数万に当たり、朝から昼まで数十合戦い援軍が来ぬまま敵の中で死んだ。金人が『姚興のような者が十人もいれば我々は前進できまい』と語り合ったという。興の忠勇はかくの如く、爵謚を加えるべきだ」と述べ、諡「忠?」が贈られた。